序章:旅の動機と二人の先達
数年前のとある夏、私はどうにも体の調子が上がらなかった。思考がうまくまとまらず、体の節々が軋むような、奇妙な淀み。もはや習性のようなもので、定期的に物理的な移動をしないと、心身の澱がうまく排出されないらしい。私にとって旅とは、趣味や気晴らしというよりは、むしろデトックス や精神的な新陳代謝 に近い、生理的な欲求なのである。
旅は好きだが、旅の計画はひどく億劫だ。どの観光名所を、どの順番で、どの交通手段で巡るのが効率的か。考え始めると、思考は無数に分岐し、あっという間に時間を浪費してしまう。せっかちで効率を重視する性分からすると、この計画段階の「非効率」がどうにも我慢ならない。結果として、私の旅はいつも「半島一周」という、思考停止できる快適なものに落ち着く。ルールは至極単純だ。レンタカーを借り、ただひたすらに海岸線を走る。それだけ決めておけば、道に迷うことすら億劫な私でも、どうにかなる。
しかし、その夏の旅は少しだけ毛色が違った。目的地を津軽半島 と定めたとき、私の脳裏には、長年バイブルとしてきた司馬遼太郎 の『街道をゆく 』の「北のまほろ ば」の章が鮮やかに蘇った。そして、津軽 を語る上で避けては通れないもう一人の巨人、太宰治 。彼の代表作『津軽 』も、この際だからと改めて読み返してみた。珍しいことだった。計画嫌いの私が、出発前に二冊もの本を読み込んでしまったのだ。
この二人の旅は、あまりにも対照的である。太宰の旅は、どこまでも「私的」で「内省的」だ。彼の『津軽 』は、このような一文から始まる。
或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島 を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽 に生れ、さうして二十年間、津軽 に於いて育ちながら、金木、五所川原 、青森、弘前 、浅虫 、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
故郷でありながら、ほとんど何も知らなかった土地。それを巡る旅は、自らのルーツを探る切実な巡礼であったに違いない。旅に出る理由を問われた彼は、作中でこう答えている。
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
(中略)
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」
「さうして、苦しい時なの?」
「何を言つてやがる。ふざけちやいけない。お前にだつて、少しは、わかつてゐる筈たがね。もう、これ以上は言はん。言ふと、気障きざになる。おい、おれは旅に出るよ。」(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
作家としての、あるいは一人の人間としての焦燥感。それが彼を津軽 へ向わせた。彼の旅は、旧友との再会や過去の記憶との対峙を通じて、自らの内面へと深く深く潜っていく。
一方、もう一人の先達、司馬遼太郎 の視線は、太宰のそれとは正反対だ。彼の旅は、「公的」で「歴史的」である。太宰が自らの血肉の声を聴こうとしたとすれば、司馬遼太郎 は、土地そのものが発する歴史の声に耳を傾けた。彼は『街道をゆく 41 北のまほろ ば』で、この土地が持つポテンシャルを「まほろ ば」という言葉に託し、その意味を深く問い直すことから旅を始めている。
古代における『まほろ ば』は、国あるいは郷土の意味だが、その意味をさだかにしてゆけば、『真秀(まほ)ら』つまり秀れたる場所である、という感動語である。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
そして、その「秀れたる場所」とは何か。単なる景勝地 を指すのではない。
その村の風景が美しい、ということと、そこでの人々の生活が美しい、ということと、そこにいる人々の心性が美しい、ということの三つの要件から成立している。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
司馬の旅は、この三つの要件が、日本の北辺においてどのように存在し、あるいは失われていったのかを辿る壮大な思索の道程だ。彼は、この地の歴史を語る上で、中央とは異なる独自の精神史があったことを強調する。
この地の民衆が、どのような精神史を歩んだか、ということに興味がひかれる。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
古代においては中央を凌駕するほどの文化が花開いた「まほろ ば」。しかし、その後の歴史の中で、津軽 は長く「寡黙」になる。なぜ、「まほろ ば」は歴史の表舞台から姿を消したのか。司馬の旅は、この壮大な謎を解き明かそうとする試みでもあった。
そして、司馬遼太郎 は、この津軽 という土地を語る上で、先行する文学者である太宰治 を強烈に意識している。彼は太宰を、単に津軽 出身の作家としてではなく、この土地の複雑な精神史を体現した存在として捉える。その評価は、愛憎入り混じった、実に複雑なものだ。
わが国の作家で、これほど故郷を憎んだひとはすくない。かれは郷里を憎みきって、その憎悪をことさらに文章にしたたかに表現することで、自己を表現した。太宰治 のことである。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
内へ向かう太宰と、外へ向かう司馬。この二つのまったく異なる視座を携えて、私は津軽 の道を走ることにした。計画嫌いの私が立てた計画は、やはり「津軽半島 を一日で一周する」という、我ながら無謀でせっかちなものだった。夜行バスで東京を発ち、真夏の早朝、弘前 に降り立つ。そこでレンタカーを借り、日が暮れるまでに半島をぐるりと駆け抜ける。二人の先達がじっくりと歩いた道を、エアコンの効いた現代の利器で一気に駆け抜けるとき、一体何が見えるというのか。自らの浅薄さを予感しつつも、私はアクセルを踏み込んだのである。
第一部:東海岸 北上 - 歴史の陽炎と朝の湯
私の旅は、太宰が辿ったルートをなぞるように、弘前 から青森市 を経て東海岸 、外ヶ浜街道 を北上することから始まった。じりじりと照りつける太陽が、アスファルト から陽炎を立ち上らせている。弘前 の城下町には目もくれず、ただひたすらに北を目指す。私の関心は、城そのものよりも、この土地の歴史をダイナミックに動かした人物にあった。司馬遼太郎 が「北のまほろ ば」で強烈な光を当てた男、津軽為信 である。
司馬は、為信を単なる地方の戦国大名 としてではなく、歴史を新たな段階に押し上げる原動力として描いている。
為信は、戦国末期における最大の梟雄のひとりといっていい。梟雄というのは、いわば英雄の悪党めいた呼称だが、かれらがおこなったことは、その地方の歴史をあたらしい段階にむりやり押しあげることであった。
(中略)
為信という人物は、津軽 の歴史のなかで、ひとつの奇蹟であった。かれの存在によって、津軽 は、はじめて南部氏の支配から脱して独立し、政治的実体をもつ「国」になった。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
南部氏の一族でありながら、主家を裏切り、謀略と武力で津軽 を切り取っていく様は、まさに梟雄そのものだ。しかし、司馬の筆致は、為信を単なる悪党として断じてはいない。むしろ、その行動力と政治的嗅覚に、ある種の魅力を感じているようにさえ読める。
為信は、京都の中央権力(このばあいは秀吉)の価値を、東北の武将のなかでだれよりも早くみぬき、その価値に自分をくっつけることによって、津軽 というあたらしい領国を、権威ある一個の政治的存在として確立させようとした。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
中央の価値を見抜き、それを最大限に利用する。このリアリズムこそが、為信を単なる地方の反逆児で終わらせなかった所以だろう。私は、陽炎の揺らめく国道を走りながら、この土地が持つ、どこか中央への反骨心と、同時に中央を強かに利用しようとするしたたかさの二面性に思いを馳せた。それは、太宰が『津軽 』の序編で記した、弘前 の人々が持つ「ほんものの馬鹿意地」にも通底しているように思える。
永慶軍記といふ古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず。」といふ言葉が記されてゐるさうだが、弘前 の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ。(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
この頑固で、どこか非合理な誇り。それこそが、為信のような人物を生み、津軽 という「国」を形作った精神的な土壌なのかもしれない。
青森市 を抜け、いよいよ外ヶ浜街道 に入る。時刻は午前10時を少し回ったところ。半島を北上する前に、私は一つ寄り道をすることに決めていた。計画嫌いの私だが、良質な温泉とサウナの情報収集だけは怠らない。夜行バスで凝り固まった体をほぐし、これからの長距離運転に備える。これほど合理的な判断はないだろう。目的地は、蓬田村 にある「ふれあいセンター よもぎ 温泉」。観光客向けの華やかさとは無縁の、その地味な佇まいにこそ、私は惹かれた。
ふれあいセンター よもぎ 温泉
www.yomogita-assist.com
「ふれあいセンター」という名の通り、そこは地元の人々の憩いの場だった。湯船には、農作業の合間に立ち寄ったのであろう老人たちが数人、気持ちよさそうに体を沈めている。湯は、わずかに黄色がかった透明で、肌にまとわりつくような、ぬるりとした感触があった。いわゆる「美人の湯」と呼ばれる泉質だろう。飾り気はないが、湯そのものの力が圧倒的だ。これぞ、私が求める温泉の姿である。
私は湯船の縁に頭を乗せ、天井を眺めながら、太宰の旅に思いを馳せた。彼がこの外ヶ浜をバスで旅したのは、昭和19年 の5月。季節外れの寒さに震えながらの道中だったという。
夜のふけると共に、ひどく寒くなつて来た。私は、そのジヤンパーみたいなものの下に、薄いシヤツを二枚着てゐるだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来てゐる人さへ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでゐる。(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
かたや寒さに震え、かたや真夏の朝から極上の温泉に浸かっている。この圧倒的な断絶。しかし、この土地に湧き出る湯の温かさは、太宰の時代から何も変わっていないはずだ。もし彼がこの湯を知っていたら、旅の途中に立ち寄り、凍えた体を温めたのではないか。そんな空想をしながら、私はじっくりと体を芯から温めた。
最高の温泉で心身ともにリフレッシュし、再び北上を開始する。太宰の『津軽 』の旅が本格的に動き出すのは、蟹田 の町からだ。彼の旅は、旧友たちとの再会によって彩られている。蟹田 では、中学時代の唯一の友人であったN君と再会し、蟹を肴に酒を酌み交わした。
何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
青雲倶に達せず、白髪逓たがひに相驚く。
二十年前に別れ、三千里外に行く。
此時一盞いつさん無くんば、何を以てか平生を叙せん。 (白居易 )(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
私はといえば、もちろん迎えてくれる友人もいない。蟹田 の町を、ただ車で通り過ぎるだけだ。彼が友人と旧交を温めたであろう家々を横目に、私はコンビニで買った淹れたてのコーヒーを啜る。孤独だが、気楽だ。この自由こそが、計画嫌いの私にとっては何よりの贅沢なのだ。
車は三厩 (みんまや)を過ぎ、いよいよ本州の最北端、竜飛崎へ向かう。その途中、私は義経 寺に立ち寄った。
義経 寺
太宰も訪れたこの寺について、彼はどこか冷めた筆致で記している。
むかし源義経 、高館をのがれ蝦夷 へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前 の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経 の風祈りの観音といふ。(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
そして、この伝説を「奇妙に恥づかしいものである」と一蹴する。私もまた、この手の伝説にはどこか白けてしまう。合理性を求める性分が、素直な感動を妨げるのだ。
しかし、司馬遼太郎 の視点は全く異なる。彼はこの義経 寺の伝説に、単なる物語以上の、津軽 という土地の精神史を見出す。司馬によれば、この伝説は津軽藩 によって巧みに利用された。自らの領地が、判官びいき の対象である義経 によって守られた神聖な土地であると喧伝することで、防衛意識を高めようとしたのだ。そして、その藩の意図は、やがて民衆の間に深く浸透し、独自の信仰へと発展していく。
寛政六年(1794年)に蝦夷 地でアイヌ の蜂起が起きた際、幕府から援軍を命じられた津軽 の村々は、義経 寺に「護国」の祈祷を依頼した。これは、義経 の威霊が国難 から自分たちを守ってくれるという、切実な信仰の表れだった。司馬はこの現象を、単なる「迷信」とは見なさない。
この信仰は単なる「迷信」と片付けられるものではなく、津軽 という僻地の人々が、中央権力からの自立を志し、アイヌ やロシアといった外敵から身を守ろうとした郷土防衛の意識と結びついていたものとされている。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
そして、司馬はこう結論付ける。
この寺が、義経 という「流浪の英雄」の霊魂に津軽 の民衆の自立の精神を投影しているように見える。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
太宰が「恥づかしい」と切り捨てた伝説の中に、司馬は津軽 人の反骨と自立の精神史を読み解いた。同じ対象を見ても、視座が違えば、見える風景は全く異なる。私は、二人の巨人の視点の間で揺れ動きながら、この北の寺を後にした。
三厩 から竜飛崎までは、太宰の時代、波打ち際の心細い道を3時間ほど歩かねばならなかったという。彼の描写は、自然の厳しさを克明に伝えている。
二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、(中略)この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
私が走る国道339号線 、通称「竜泊ライン」は、かつての心細い道とは比べ物にならないほど整備されている。しかし、カーブを曲がるたびに現れる断崖絶壁と、夏の強い日差しを浴びて青く光る津軽海峡 は、太宰が見た「風景以前の風景」の面影を今に伝えている。ここは、人間を寄せ付けない、自然の素顔が剥き出しになった場所だ。
そして、ついに竜飛崎に到着する。太宰は、この地の最初の印象を「鶏小舎に頭を突込んだ」と記した。
路がいよいよ狭くなつてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。
「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
「本州の袋小路」。これほど的確な表現があるだろうか。私もまた、車を降りてその集落を歩いてみた。強い海風を避けるように家々が身を寄せ合い、細い路地が迷路のように入り組んでいる。有名な「階段国道 」も、この土地の過酷な地形が生んだ、生活の知恵の結晶だろう。
風の岬に立ち、津軽海峡 を眺める。
太宰はこの地で、辺境の可憐な文化に希望を見出したが、司馬は同じ場所に立ち、幕末の志士、吉田松陰 に思いを馳せた。この、吉田松陰 の津軽 来訪という事実に、私は驚きを禁じ得なかった。長州の思想家が、なぜこの北の果てに。
松陰は、二十四歳の多感な年齢でここに来て、なにを視、なにをおもったか。かれは、日本という国家の全体像とその国家がおかれている客観的な立場を、この岬で実感したかったにちがいない。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
司馬によれば、松陰が津軽 を訪れたのは安政 三年(一八五六)八月。その目的は、津軽藩 士たちに「西洋兵学 」を講じるためであった。津軽 が「北方防衛の要地」であり、「ロシア」の脅威を強く意識していたこと、そして松陰自身も「蝦夷 開拓」を唱えるなど、北方防衛に強い関心を持っていたこと。この両者の危機意識が、奇跡的な邂逅を生んだのだ。
松陰の教えは、単なる軍事技術に留まらなかった。
藩の体制を批判し、世直しを唱えた。(中略)藩の旧体制を批判し、変革を促した。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
この思想が、後に津軽藩 の「世直し派」と呼ばれる若手藩士 たちに受け継がれ、藩の近代化を推し進める原動力となった。
弘前藩 では松陰の兵学 を学んだ人々が後に世直しという運動の中心人物になった。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
私は、この岬に立ち、津軽海峡 の向こうを見つめながら、歴史の不思議な糸を感じていた。一人の思想家が蒔いた種が、遠く離れた北の地で芽吹き、やがて藩の運命を変えるほどの大きな流れになっていく。街道をゆく ということは、こうした歴史のダイナミズムに触れることでもあるのだ。
時刻は昼を少し回ったところ。私は岬の食堂の暖簾をくぐった。ラーメンは栄養補給と割り切っている私だが、旅先での一度くらいの贅沢は許されるだろう。メニューに並ぶ海産物の中から、迷わずウニ丼を選んだ。計画性のない旅の中での、唯一の明確な目的だったかもしれない、と一人ごちる。
やがて運ばれてきた丼には、鮮やかなオレンジ色のウニが、ご飯の上にどっさりと乗っていた。一口含むと、濃厚な甘みが舌の上でとろけ、磯の香りが鼻腔を抜ける。単なる味覚の快楽ではない。この極北の地で、津軽海峡 の荒波に揉まれたウニを食すという行為そのものに、私は深い感慨を覚えていた。吉田松陰 も、まさか後世の人間が、国防の最前線でこんな美味を堪能しているとは思わなかっただろう。二人の先達の思索に、土地の恵みという具体的な手触りが加わった瞬間だった。
第二部:西海岸南下 - 幻の都と物語の引力
竜飛崎から南下を始めると、半島の表情は一変する。険しい外ヶ浜とは対照的に、西海岸は広大な砂丘 地帯がどこまでも続いている。やがて、広大な十三湖 (じゅうさんこ)が視界に広がってくる。こここそ、司馬遼太郎 が「北のまほろ ば」の核心として描いた場所である。かつて、この地に「十三湊(とさみなと)」という幻の国際貿易港が存在した。
太宰は『津軽 』の中で、この湖を「人に捨てられた孤独の水たまり」と、その静謐さを描写したが、司馬の視線はその水面の下に眠る、熱い歴史へと注がれる。
中世に書かれた「廻船式目」のなかでは、「津軽 十三の湊」として、博多や堺ととならぶ全国「三津七湊」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられている。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
この地を支配した安東氏は、大陸との交易をも行い、一大勢力を築いたという。司馬の筆致は、この北の果てに存在した幻の都へのロマンに満ちている。
かれら(安東氏)は、どこからきたのか。そのことが、この氏族を神秘的にしている。かれらは、安倍貞任 の子孫だとか長髄彦 の末裔だとか称しているが、それらはみな仮冒であろう。おどろくべきことに、かれらには文書というものがない。一族のあいだでさえ、口承によっておたがいの家の由緒を述べたてたらしい。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
文書を残さない謎の海洋豪族。その存在自体が、中央集権的な歴史観 に対するアンチテーゼのようだ。司馬がこれほどまでに安東氏に惹かれたのは、彼らが持つ「もう一つの日本」の可能性に魅了されたからに他ならない。
かれらは海にうかぶ浮標のように、この十三湊を本拠にして、日本海 の海上 権をにぎり、巨大な富をたくわえた。その富で、かれらは武装 した。おそらくは朝鮮や、あるいは沿海州 方面の珍奇な文物も、かれらのもとにはあふれていたにちがいない。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
しかし、その栄華は歴史の波にのまれ、今では静かな湖面が広がるばかりである。私は、その湖畔に立つ「しじみ 亭奈良屋」という食堂の暖簾をくぐった。時刻はすでに14時半を過ぎていた。遅い昼食として注文した名物のしじみ ラーメンは、滋味深いスープが空腹の体に染み渡る、格別な味がした。一杯のラーメンの向こうに、司馬が描いた数百年の栄枯盛衰が横たわっている。
www.shijimi.net
腹を満たした私の旅は、いよいよ核心へと向かう。太宰が三十年ぶりに乳母「たけ」と再会した、小さな漁村、小泊である。その手前の中泊町 で、私は「小説『津軽 』の像記念館」という小さな看板を見つけ、吸い寄せられるようにハンドルを切った。
www.town.nakadomari.lg.jp
記念館は、太宰の旅の足跡を辿るささやかな展示施設だった。しかし、私の心を捉えたのは、展示物よりも、片隅でひっそりと上映されていた一本の映像だった。晩年の「タケ」本人が、インタビューに答えている記録映像だ。
私は、食い入るように画面を見つめた。『津軽 』を読んで、私の中に作り上げられていた、あの感動的な再会の場面の「たけ」。その人物が、今、目の前で動いている。しかし、彼女が口を開いた瞬間、私は愕然とした。その言葉が、一言も聞き取れないのだ。それは紛れもなく日本語なのだが、イントネーションも、単語も、私の知るそれとは全く異なっていた。文字で読んでいた「たけ」の言葉は、太宰という卓越した翻訳家によって、私にも理解できる形に整えられていたに過ぎなかったのだ。
津軽弁 という、土地に深く根ざした言葉の奔流。意味は分からなくとも、その声の調子や、時折見せるはにかんだような笑顔から、彼女の持つ愛情の深さだけは痛いほど伝わってくる。司馬が津軽 の言葉に感じ入った、あの感動が少しだけ分かったような気がした。
津軽 の言葉は、日本人が失ってしまった、言葉の美しさをもっている、と私は感じた。
(中略)
そこには、いまも、生きた音韻(おんいん)が息づいている。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
それは、感動的であると同時に、自分がこの土地の本当の姿にはまだ触れられていない部外者であることを突きつけられるような、強烈な体験だった。この聞き取れない言葉の壁こそが、津軽 という土地の、本当の肌触りなのかもしれない。
記念館を出て、再び小泊へと車を走らせる。先ほどの映像の衝撃が、これからの体験をより一層、意味深いものに変えようとしていた。司馬の壮大な歴史探訪というマクロな視点から一転し、旅の主旋律は、個人の記憶と感情というミクロな世界へと移っていく。
そして、小泊。私は、太宰がたけと再会したであろう場所を探した。運動会が開かれたという砂丘 、そして二人が語り合った竜神 様の森。もちろん、そこに案内板などない。蝉時雨が降り注ぐ、夏の漁村のありふれた風景だ。しかし、だからこそ良かった。観光地化されていない静かな場所で、私は目を閉じ、想像力を羽ばたかせた。
聞き取れなかったタケの生の声を思い出しながら、私は『津軽 』のあのクライマックスを反芻する。
たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切たみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。(中略)三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、(中略)それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。(太宰治 『津軽 』より、青空文庫 所収)
あの聞き取れなかった言葉の奥に、これほどの情愛が込められていたのだ。書物という二次元の世界に、現実の土地の匂いや風、光、そして生の言葉の響きが与えられ、物語が三次元的に立ち上がってくる。この感覚は、どんな有名な観光地を訪れるよりも、深く、そして静かに、私の心を揺さぶった。一日という慌ただしい旅の中で、ここだけが、まるで時間の流れが違うように感じられたのである。
終章:終着点、金木 - 三人の女性の面影とサウナ
小泊を後にした私は、旅の最終目的地である金木町へ向かった。この旅には、もう一つ密かな目的があった。今はもう伝説となった、桑田ミサオさんの笹餅を手に入れることだ。この旅に出るずっと前から、私はNHKオンデマンド で彼女のドキュメンタリーを何度も、それこそ有料の視聴期間が切れるたびに買い直して、見返していた。「プロフェッショナル 仕事の流儀 」(2020年6月2日放送)と「ETV特集 」(2022年1月8日放送)。その二つの番組は、私の心を捉えて離さなかった。
www.nhk-ondemand.jp
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まず、太宰の生家である太宰治記念館「斜陽館」 を訪れる。司馬が描いた梟雄・津軽為信 を生んだ風土と、太宰のような繊細な感受性を育んだ風土が地続きであることの不思議を感じる。この豪壮な邸宅が太宰の原風景なのか。ここで、司馬遼太郎 の厳しい太宰評が、重くのしかかってくる。
わが国の作家で、これほど故郷を憎んだひとはすくない。かれは郷里を憎みきって、その憎悪をことさらに文章にしたたかに表現することで、自己を表現した。太宰治 のことである。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
この巨大な家、大地主という出自。それが太宰に生涯つきまとったコンプレックスの源泉であり、故郷への憎悪の根源であったことは想像に難くない。司馬はさらに、『津軽 』を単なる紀行文とは見なさない。
友人であるH君が、『太宰治 の『津軽 』は名著だが、これは旅行記 ではなく、小説というべきだ』と指摘してくれた。私もそのように考えていたから、うれしかった。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
『津軽 』の中で描かれる「いとこ」の津島文治 という人物の描写について、司馬はそれが事実とは異なると指摘し、太宰が自身の複雑な家族関係を、文学的虚構の中に昇華させたのではないかと鋭く分析する。
彼は、『いとこ』と書いたが、それは彼の父の実弟 (つまり叔父)である可能性がつよいと、私は推量した。父の名は津島源右衛門 で、この人が、妾腹の弟を津島文治 と名づけて養子としたのかもしれない。太宰治 は、津島文治 という人物を『故郷の者』として、文章に登場させている。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
この指摘は、私が小泊で感じた、生の「たけ」と文学作品の中の「たけ」との間の距離感とも符合する。太宰の『津軽 』は、事実をなぞりながらも、彼の内面世界を投影した、まことに「珍妙な小説」なのだ。その憎悪も愛情も、すべては太宰治 という作家の自己表現のための装置であったのかもしれない。司馬は、その文学的手法をこう喝破する。
太宰は、彼の文学的方法として、故郷を憎悪するという形式をとったのである。(司馬遼太郎 『街道をゆく 41 北のまほろ ば』)
そして、もう一つの目的、ミサオさんの笹餅を求めて、金木タウンセンター店へと向かった。ミサオさんの生き方は、効率や合理性とは対極にある。60歳で笹餅作りを始め、75歳で起業。その評判は全国に広がり、津軽 を代表する味の一つとなっていた。
映像の中で見た彼女の姿が、脳裏に焼き付いている。自ら山に分け入って笹の葉を採り、材料のこしあん から全て手作りする。その口から語られる「十本の指は黄金の山」という亡き母の教え。2022年3月11日付の朝日新聞 の記事で、彼女の仕事ぶりを改めて知った。
餅づくりは休日なし。販売の前日は、作業が午前6時から午後10時近くまで及ぶ。商品は1袋2個入りで200円(税込み)。材料費や作業を考えると、抑えめの料金だ。利益は年に40万円ほど。でも「もうけることを考えたら、楽しくない」と意に介さない。(2022年3月11日付 朝日新聞 )
私の「一日で半島一周」という、せっかちな旅のスタイルとはまるで違う、時間と手間を惜しまない手仕事の世界。映像を通して見たその哲学に、私は深く感銘を受けていた。だからこそ、惹かれたのかもしれない。その手仕事の結晶である笹餅を、私はどうしても味わってみたかった。
しかし、辿り着いた販売所の戸は固く閉ざされ、そこには無情にも「本日完売」の札が揺れていた。あっけない幕切れ。まあ、こんなものだろう。効率を求めて時間を短縮した結果、本当に価値のあるものを手に入れ損なう。私の人生の縮図のようだ、と自嘲的な笑みが漏れた。
記事によれば、ミサオさんは90歳を過ぎてから、その超人的な仕事にも限界を感じ始めていたという。
以前から「材料に使う27キロの米袋が担げなくなったら引退」と考えていたが、最近は持ち上げるのがやっとになった。
販売は、3月12日でいったん終えることに。「笹の葉が採れる6月になったら始めようと思っていますが、体がもう限界のようです。年内で引退するつもりです。悔いはありません」と打ち明けた。(2022年3月11日付 朝日新聞 )
私が訪れた夏、彼女はまだ引退前だったが、その人気は絶頂で、開店と同時に売り切れることも珍しくなかったのだろう。私が目にした「本日完売」の札は、単なる不運ではなく、伝説が終わりを告げる、その予兆だったのかもしれない。
まさかこの数年後に、ミサオさんご本人が笹餅づくりを引退され、この笹餅が完全に手に入らなくなるとは、この時の私は知る由もなかった。しかし、希望はある。ミサオさんのご本人の希望で、今は姪の小嶋美子さんがその後を継いでいるという。ミサオさん曰く、「自身の味に一番近いのは美子さんのつくる笹餅だ」とのこと。文化の継承。それもまた、この土地が持つ力なのだろう。
この旅で、私は津軽 を象徴する三人の女性の面影に触れた。太宰の記憶の中に生き、彼の魂の拠り所となった乳母「たけ」。会うことは叶わなかったが、その手仕事の記憶を土地に刻んだ「桑田ミサオさん」。そして、司馬が描いた歴史の陰に消えた、安東氏の時代の名もなき女性たち。彼女たちは、この厳しい土地で、男たちの歴史の背後で、しなやかに、そして強かに生きてきたのだろう。
弘前 でレンタカーを返却し、その夜の宿として予約しておいた「カプセルイン弘前 ・アサヒサウナ」へと向かった。ビジネスホテルを理想の家とする私だが、その合理性を突き詰めると、時にカプセルホテルという選択肢にたどり着く。特に、良質なサウナが併設されているとなれば話は別だ。全国の有名サウナを巡った経験から言っても、旅の疲れを癒すのにこれほど効率的な施設はない。
ここのサウナは、期待以上だった。灼熱のサウナストーンにアロマ水がかけられ、蒸気が舞い上がる。熱波師がタオルで力強く熱風を送る「ロウリュウ 」サービス。全身の毛穴という毛穴が開き、一日中運転で凝り固まった体から、汗と共に旅の澱が絞り出されていく。キンキンに冷えた水風呂との往復で、思考は明晰になり、感覚は研ぎ澄まされる。
ととのい椅子に深く身を沈めながら、一日で駆け抜けた旅を反芻する。司馬の壮大な歴史物語と、太宰の個人的な魂の遍歴。そして、会うことは叶わなかったミサオさんの笹餅。三つの異なる時間軸が、ロウリュウ の蒸気のように立ち上っては消えていく。この感覚こそ、私がサウナを愛する理由であり、旅を求める理由でもあるのかもしれない。
手に入らなかった笹餅と、心に焼き付いた小泊の森。旅の収支は、いつも不均衡だ。そして、その不均衡こそが、私を次の道へと駆り立てるのかもしれない。