ぼくのなつやすみのよてい

学生時代にバックパッカーをしておくべきだったと30歳を超えて気づきました。初めての海外は、大学卒業後のインド。懲りてしばらく海外に行かなくなりました。英語コンプレックス。東京の田舎育ち。2016年6月、初めての一人海外旅行は台湾。2016年10月、2度目の一人海外旅行はイラン。 語学力がなくても何とかなることに気づき、そこからよく海外に行くようになりました。 リュックだけ持って、LCCで海外にいく弾丸海外旅行スタイルが好きです。

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日本のイートンを夢見て——父の母校・全寮制秋川高校一期生の記録

2026年4月、あきる野市長・中嶋博幸が不出馬を表明した。在任中の「特に大きな成果」として、旧都立秋川高校跡地の活用の見通しがついたことを挙げていた。少年時代の私が少年野球で駆け回ったあのグラウンド。閉校から四半世紀、その場所がいよいよ動き出すらしい。

ふと、ずっと心の片隅に引っかかっていたものを開いてみる気になった。秋川高校は父の母校である。父が亡くなった折にパソコンを整理していて、ブラウザのブックマークに同窓会のホームページが残っているのを見つけたのを覚えていた。

同窓会員専用ページには、閉校記念誌、25周年記念誌、「秋川だより」全号、秋川高校新聞などがPDFでアーカイブされていた。15歳の少年たちが放り込まれた全寮制高校の3年間が、そこに記録されていた。

「日本にイートンのような学校を作ろう」

昭和38年(1963年)6月、東京都教育長・小尾乕雄は全寮制高校の構想を明らかにした*1。モデルは1440年創立のイギリスの名門パブリックスクール、イートン・カレッジ。25周年記念誌の宗方俊遃校長の回想は、その背景を伝えている*2

昭和40年、戦後20年を経た日本では、たくましい心身の衰退、協調の心の欠如をはじめとして、今日言われる教育問題のほとんどはその姿を現していた。

海外や他県に転勤する保護者の子弟で都内に残る高校生が約3,000人いるとの調査結果を受け、その受け皿として鈴木俊一副知事(後の都知事)らの支援も得て、秋留台地に都立秋川高校が設立される。掲げられた教育目標は「心身ともに健康でたくましく、たえず自己の向上に努力し、社会の発展と日本文化の創造とに寄与できる自主独立の人材を育成する」。全国初の公立全寮制高校。一つの教育実験であった。

開校前夜 -- 何もないところから

昭和39年(1964年)10月、井上義夫が開設準備に任命された。校地は西多摩郡秋多町(現・あきる野市)の秋留台地。11月10日、校名「東京都立秋川高等学校」、寮名「玉成寮」(玉のように立派にみがき上げる、の意。「多摩」にも通ず)が決定し、この日が開校記念日となった*3

応募は予想を上回り、募集定員240名に対し願書は762名。約3倍の倍率である。昭和40年2月17日、合格発表は有楽町の都庁第2庁舎1階ロビー(現・東京国際フォーラムの場所)で行われ、入学許可予定者252名の名前が掲示された。檜原村のような奥多摩からは、バスと電車を乗り継いで片道約3時間かかる場所であった。

228人の入寮 -- 昭和40年4月

昭和40年4月20日、第1期生228名の入寮式。22日が入学式。通常の高校より2週間以上遅いのは、第1期工事完了が3月31日で準備が間に合わなかったためだ(2期生以降は4月上旬)。校舎も寮も建設途上。工事の音が響く中での学校生活が始まった。

4月30日、誕生日でもあるこの日、一期生はメタセコイアの苗木240本を校庭に植えた。1本につき2名で世話係を引き受け、それぞれの名札を木に吊るす*4。後に秋川高校の象徴となる並木は、こうして始まった。

5月2日、初めての外出日。秋川だより第1号は、その混乱ぶりを生き生きと伝えている*5

当日朝食後、生徒は飛ぶように西秋留駅(現・JR秋川駅)に向かう。駅では200名以上の切符を一度に売るのは前代未聞のこととて、てんてこ舞い。17:30の帰寮時刻に遅れる者31名。

200人以上の高校生が一斉に切符を求める光景は、この小さな駅にとって前代未聞の出来事だった。

5月7日に体育クラブ、17日に文化クラブが編成された。体育クラブは全員必修で、テニス55名・バスケット42名など8種目。文化クラブは音楽35名、英語20名など5種目。すべてが一から組織された。

5月22日、NHK「スタジオ102」が秋川高校を取り上げ、本校を激励する旧制高校出身の名士多数が参加した*6。旧制高校のOBたちが全寮制の後輩校を応援したのである。

ところが6月、ボイラーが2度爆発する*7。13日の2度目は修理直後の再爆発で、ボイラーマン2名が大火傷を負って阿伎留病院に入院。入浴は平井「鹿の湯」、福生「松の湯」へバスでピストン輸送、給食は青梅の給食センターからの仕出し弁当という非常態勢が敷かれた。

7月20日、第1学期終業式。井上校長は秋川だより第3号にこう記している*8

4月以来、3年もたったような感じがする。今日は終業式ではなく、卒業式のようだ。

寮生活の実像 -- 朝6時から夜10時まで

全寮制とは、24時間を共に過ごすということである。秋川高校の寮日課はこうだった*9

時刻 内容
6:00 起床可、早朝学習
6:45 一斉起床
7:00 点呼
7:30 朝食
8:10 登校(閉寮)
17:30 下校
18:00 夕食
19:30 学習時間開始
22:00 学習時間終了、報告点呼
22:30 消灯・就寝

寮室は学年別で一部屋5名、フロア約40名で一つの「班」を構成する。食事当番、清掃、シーツ交換、鍵の管理。すべて生徒の自主運営である*10

理想と現実の間にはつねに距離がある。25周年記念誌は、生徒指導の処分体系として「コ・シ・フ・キ・ガ」という独特の略語を紹介している*11。コ=校長訓戒、シ=始末書、フ=父兄召喚、キ=謹慎、ガ=外出泊禁止。喫煙が発覚すれば「コシフキ」、無断外出して喫煙なら「コシフキガ」。逃げ場のない生活指導であった。

開校記念式典 -- 一期生の秋

昭和40年10月10日、東京オリンピックからちょうど一年後の日に開校記念式典が挙行された。当日、校歌(作詞・歌人の木俣修、作曲・作曲家の諸井三郎)と校旗が披露され、文化祭も同日に開かれた。体育祭・寮祭は一週間後の十月十七日に行われている。

小尾教育長の告示「君等の1日1日は日本の将来につながる。一生懸命努力して欲しい」に対し、玉成会会長・長谷川俊隆君がこう応えた*12

私達はこの学校に入ることにより、友情を通しての協力、距離を隔てての家族への愛情を知った。まだまだ私達は学習の面でも反省すべきことが沢山ある。"初心忘るべからず" これからも一歩一歩努力します。

秋川高校新聞第2号の総括的な見出しは、こう謳う。「明日の日本を双肩に -- 規律ある生活、恵まれた環境。エリート意識の持てる高校生に。」

卒業、そしてメタセコイアは育つ

昭和43年3月17日、第1回卒業式。卒業生234名(228名で入学し、転入生を加えた数)。閉校記念誌に掲載された一期生(現役)の進路状況は次のとおりである*13

国公立は5大学に計6名(大阪大・基礎工1、東北大・工2、東京農工大・農1、東京学芸大1、鹿児島大1)。私立は早稲田・慶應・立教・明治・青山学院・中央・法政・成蹊・武蔵・駒澤・獨協・日本大・東海・東洋・東京理科・芝浦工業・東京電機・日本獣医畜産・東京農業・国立音楽など計40名。東京学芸大学の合格者1名が、私の父である。

当時の国立大学入試は「一期校」「二期校」に分かれており、各一校ずつ計二校受験できた。大阪大や東北大は一期校、東京学芸大や東京農工大は二期校。実態としては一期校が本命、二期校が滑り止めという構図だが、東京学芸大は教員養成の最高峰であり、教師の家系だった父にとっては、二期校の「滑り止め」ではなく明確な志望先だったのかもしれない。

朝日新聞は「卒業生234名のうち、大学合格者は46人。合格率20パーセント」と報じた。木村勇三初代舎監長はこう述懐している*14

苦心の割に成果があがらなかった。労多くして功少なかったが、全寮制の成果は20年先、30年先、50年先と長い目で見てほしいものだと思う。

数字だけを見れば華々しいとは言えない。だが全寮制教育の真価は、合格率には表れない。

一期生が植えたメタセコイアの並木は、その後も成長を続けた。初代校長・井上義夫は25周年記念誌の祝辞「メタセコイヤに託して」で、この木の由来を記している。アメリカから初めて苗木が届いたのは昭和24年。第1号は皇居・吹上御苑に植えられた。昭和天皇が昭和62年の歌会始(お題「木」)で詠まれた一首はこの木のことである。

わが国のたちなほり来し年々に あけぼのすぎの木はのびにけり

戦後の復興とともに育った「あけぼのすぎ」は、秋川高校の校章のモチーフであり、一期生が自らの手で植えた木でもあった。

メタセコイア並木のいま -- 閉ざされた森の行方

平成13年(2001年)、秋川高校は36年の歴史に幕を閉じた。受験者の減少が続き、定員は240名から80名まで縮小された末の閉校であった。卒業生総数5,715名*15。校舎は2009年に解体されたが、一期生が植えた240本のメタセコイアは現在も約80本が残り、高さ約30メートルの巨木として南北約300メートルの並木を形作っている*16。あきる野市の「景観百選」にも選定されている。

しかし、この並木に近づくことはできない。都が安全確保を理由に立入りを禁止しているからだ。地元住民はフェンス越しに眺めるしかない。建築士・寺坂久美さんは東京新聞にこう語っている。

新緑や紅葉が見事で、一年を通じて身近な存在。近づくことさえできないのは、もったいない。

跡地の面積は公有地だけで約10.6ヘクタール。あきる野市は令和5年(2023年)から有識者会議を5回重ね、令和6年3月に「秋川高校跡地及び秋川高校跡地周辺地区のまちづくりに向けた方向性について」と題する提言書をまとめた*17。土地利用方針として「地域のシンボルであるメタセコイア並木を中心に、緑豊かで『行きたくなる』交流環境を形成」が掲げられた一方、都財務局は「並木は伐採せず保全するとの市の意向を尊重する」としつつも「土地の処分については白紙」と回答している。市街化区域への変更と企業誘致が検討される中、並木の未来はまだ確定していない。

そして2026年4月、状況は一つの節目を迎えつつある。中嶋博幸市長(59)は4月6日、7月の市長選に立候補しないと表明。「政治は60歳までと決めていた」と語った中嶋市長は、1期の在任中の「特に大きな成果」として、跡地活用の見通しがついたことを挙げた*18。市街化区域への編入案は、5月に都の審議会に諮られる予定である。

ちなみに、この並木は1965年の植樹で、メタセコイア並木として有名な滋賀県マキノ町の並木道(1981年)よりも16年早い。日本で最初期の本格的なメタセコイア並木道の一つと言ってよいだろう。

おわりに -- 資料が語る青春

同窓会がPDFで公開してくれた資料には、当時の空気がそのまま残っていた。秋川だよりの素朴な文章、秋川高校新聞の青年らしい論説、25周年記念誌の詳細な年表。資料を読んでわかったのは、その全寮制教育がいかに手探りだったかということだ。ボイラーは爆発し、駅は生徒に占拠され、3か月で3年分の密度があった。だからこそ一期生は、すべてを自分たちの手で作ったという経験を持っている。

父は寝る前に、秋川高校の話を時折してくれた。寮生活の規律が厳しかったこと。そして英語の話。同級生に英語が得意な人がいて、その秘訣を聞いたら「中学時代の英語を勉強し直すこと」だと言われた、と。この話は何度も聞かされた。私は学生時代、勤勉ではなく英語も得意ではなかったので、妙に印象に残っている。中学英語のやり直しはしなかったが、その後独自の方法で英検一級を取得した。父の助言とは違う道を歩いたことになる。

https://onnep.hatenadiary.com/entry/2020/11/28/082635

跡地には、いまも一期生が植えたメタセコイアが残っている。フェンスの向こうで、誰にも触れられることなく。あの並木が、いつか再び人々に開かれる日が来ることを願う。

余談だが、以前、南米渡航の前に千駄ヶ谷のトラベルクリニックを受診したことがある。そこの医師が、偶然にも秋川高校の卒業生だった。閉校から四半世紀が経っても、こうして秋川高校の名前に出会うことがある。

秋川高校については、OBの岩崎充益氏による書籍『都立秋川高校 玉成寮のサムライたち』が刊行されている(岩崎氏は私の中学時代の同級生の父親でもある)。

『都立秋川高校 玉成寮のサムライたち』(岩崎充益)

イートン・カレッジをはじめとするイギリスのパブリックスクールの実像については、池田潔『自由と規律 -- イギリスの学校生活』が詳しい。

池田潔『自由と規律 -- イギリスの学校生活』(岩波新書)


参考資料:

*1:『全寮制 秋川高校の25年』東京都立秋川高等学校創立25周年記念誌、平成元年、年表

*2:宗方俊遃「秋川高校を日本のイートンに」前掲5頁

*3:前掲、年表

*4:『秋川だより 36年の歩み』閉校記念誌、年表「昭和40年度」

*5:同上

*6:前掲『全寮制 秋川高校の25年』年表

*7:前掲『秋川だより 36年の歩み』年表

*8:井上義夫「巻頭言」『秋川だより』第3号

*9:前掲『全寮制 秋川高校の25年』39頁

*10:同上38頁

*11:同上29頁

*12:前掲『秋川だより 36年の歩み』年表、秋川高校新聞第2号

*13:前掲『秋川だより 36年の歩み』41頁

*14:前掲『秋川だより 36年の歩み』41頁

*15:秋川高等学校同窓会HP「玉成寮入寮者は6000名を遥かに超え、…5715名…を卒業生として世に送り出した」https://www.akikawa.tokyo/

*16:「メタセコイア並木の未来探る」『東京新聞』2025年3月20日

*17:https://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000016061.html

*18:皆川剛「あきる野市長選挙、現職の中嶋博幸さんが不出馬を表明」『東京新聞』2026年4月7日

【レビュー】ロバート秋山の名曲「TOKAKUKA」

都か、区か、それが問題だ

ロバート秋山の「TOKAKUKA」という曲がある。まず聴いてほしい。

「都がやってる東京芸術劇場/区がやってる浅草公会堂」と、ひたすら公共施設の管轄を歌い上げる。二重行政の問題を歌い上げた名曲だ。

私はこの曲が好きすぎて何度も聴いている。公園や道路を見ると瞬時に「これは都? 区? 市?」と管轄を気にしてしまうクセがある人間なので、聴けば聴くほど、これは行政教材として最高なのではないかと思うようになった。ハムレットが「To be, or not to be」と悩んだように、秋山さんは「都か、区か」で悩んでいる。行政界のハムレットだ。

「誰がやってるか」は意外とわからない

歌詞をよく聴くと気づくのだが、公共施設は「誰が持っているか(所有)」と「誰が運営しているか」が一致しないことが多い。指定管理者制度やコンセッション方式の導入で、所有と運営は分離している。歌詞はそのことを暗記カードのように整理してくれる。

せっかくなので、歌詞に登場する施設の所有・運営主体を調べてみた。

施設名 所有 運営
東京芸術劇場 東京都 公益財団法人東京都歴史文化財団
葛西臨海水族園 東京都 公益財団法人東京動物園協会
江戸東京たてもの園 東京都 公益財団法人東京都歴史文化財団
浅草公会堂 台東区 公益財団法人台東区芸術文化財団
新宿コズミックセンター 新宿区 公益財団法人新宿未来創造財団
パルテノン多摩 多摩市 公益財団法人多摩市文化振興財団
あきる野ルピア あきる野市 あきる野市都市整備公社
京都ふわふわ公園 京都市 京都市都市緑化協会
オホーツク木のプラザ 北見市 一般財団法人北見市都市建設公社
グランキューブ大阪 大阪府 公益財団法人大阪観光局

見事に全部、所有と運営が別の主体だ。

ちなみに同じ構造は公共図書館にも広がっていて、図書館流通センター(TRC)は指定管理方式の公共図書館の約42%を運営している(2024年度統合報告書)。歌詞を辿るだけで、この複雑な構造が頭に入ってくる。

「ルピア」の衝撃

私はあきる野市育ちなので、歌詞に「ルピア」が出てきた瞬間、一気に引き込まれた。

子供の頃、ルピアと隣の「あきる野とうきゅう」を行き来していた。ルピアは普通のショッピングセンターだと思っていた。あれが市の公共施設だったと知ったのは、大人になってからだ。

お買い物さ あきる野ルピア 都がやってる? 市がやってる

この一節を聴いて、自分の生活の記憶と行政制度がつながった感覚があった。

「ルールが分からない」が本質

曲の途中で、こんな歌詞が出てくる。

都か 区か? 市か 区か? ルールが分からない

これは笑いどころだけど、本質を突いている。大阪都構想の論争でも繰り返されたように、二重行政の問題は結局「ルールが分からない」に集約される。秋山さんはそれを歌にしてしまった。

そして最後に、

都都都都 区区区区/市市市市 府府府府

と行政単位がひたすら並ぶ。もはや呪文だ。でもこの呪文を聴いた後だと、街を歩いていても「この施設は都? 区?」と考える癖がつく。

やや観念的な議論になったかもしれないが、『TOKAKUKA』が最高の行政教材であるという結論に揺るぎはない。

私が愛する新宿の歯医者、タカベデンタルクリニックの話

きっかけは朝日新聞の記事だった

2024年12月6日付の朝日新聞に、歯科業界の「二極化」についての記事が載っていた。書いたのは、ネットワーク報道本部の中村英一郎記者。

中村記者は、広告営業を15年やった後に記者に転身した人で、都政の取材から個人の暮らしの問題まで幅広く書いている。私が日頃からよく読んでいる記者の一人だ。

その記事の中に、こんな一節があった。

今後の設備投資などができる高い治療を提供できる歯科医と、高齢化などで廃業していく歯科医の二極化が加速するのではないか

そして先進的な医院の例として挙がっていたのが、職場のすぐ近くにあるタカベデンタルクリニックだった。

実際、技術をめぐる競争は激しくなっている。新宿区の「タカベデンタルクリニック」は23年2月、米国メーカー「デンツプライシロナ」の治療システムを導入。虫歯を削るところから、詰め物やかぶせ物の接着まで一度の通院で完了できるようになったという。

信頼している記者が書いていて、しかも職場の近く。ウェブサイトも見ずに、すぐ予約の電話を入れた。

口臭測定で「0」を目指す

行ってみると、雰囲気がいい。院長も衛生士も受付も、みんな丁寧で感じがいい。歯医者特有のあの張り詰めた空気がない。

それだけでも当たりだと思ったのだが、ここからが本題。

初診の検診プロセスに「口臭測定」が組み込まれていた。自分から頼んだわけではない。測定器「MS-ハリメーター」で呼気を三度採取して、数値で出る。

私の初期値は「130以下」。問題ないレベルだという。

ただ、ここで私の面倒くさい性格が出た。「問題ない」と「ゼロ」は違う。理論上の最低値は「0」らしい。じゃあ、0にしたい。

高部院長に相談すると、こんなアドバイスをもらった。

「朝起きたら、まず歯を磨いてください。夜の間に口の中で菌が大量に繁殖しているので、それを朝食と一緒に飲み込むのは良くないですから」

「うがい薬を使うときも、ただクチュクチュするだけではもったいない。口に含んだら、今度はあなたの『舌』を掃除道具に見立てるんです。舌先で、頬の裏側、歯の裏側、歯茎の境目を、丁寧にこすり洗いするイメージで。口の中の垢を、根こそぎ落とすつもりでやってみてください」

要するに「舌磨きうがい」だ。お金はかからない。道具も要らない。自分の舌を使うだけ。

これが、効いた。

三ヶ月後のメンテナンスで再測定したら、数値は「0」だった。コストゼロで口臭ゼロ。院長のアドバイスを愚直にやっただけで、目標達成してしまった。

後からウェブサイトを見て驚く

ちなみに、通い始めてからようやくクリニックのウェブサイトをちゃんと見た(順番が逆だ)。

見て驚いた。設備がすごい。

口臭測定器だけじゃなく、「4000倍位相差顕微鏡」で口の中の細菌の動きを見られるとか、「口腔内視鏡」で紫外線ライトを当てると普段見えない歯石が浮かび上がるとか、とにかく「見える化」の機器がこれでもかと揃っている。

衛生管理もすごい。歯を削るハンドピースを80本以上用意して、患者一人ごとに交換・滅菌しているらしい。普段見えない部分をここまで公開しているのは、なかなかできることではない。

あの「舌磨きうがい」というシンプルなアドバイスの裏に、これだけの設備と衛生管理の裏付けがあった。先にウェブサイトを見ていたら「設備が充実した歯医者」という印象で終わっていたかもしれないが、体験が先だったから、答え合わせのような感覚で読めた。

いい歯医者、見つけた

朝日新聞の記事が指摘していた「二極化」は、新しい機材を持っているかどうかだけの話ではないと思う。「経験と勘」から「測定とデータ」に軸足を移す覚悟があるかどうか、だ。

タカベデンタルクリニックは、その覚悟がある歯医者だった。しかも、先進的な設備と温かい人柄が同居している。

長いこと「ここだ」と思える歯医者を探していたが、ようやく見つかった。きっかけが新聞記事だったというのも、今の時代にはちょっと珍しいかもしれない。でも、信頼できる書き手の記事は、やっぱり信頼できる場所を教えてくれるものだ。


【クリニック情報】 タカベデンタルクリニック 電話番号:03-3345-8241

takabe-dc.com

【数年前のぼくのなつやすみの記録】なぜ私は、真夏の津軽を一日で駆け抜けたのか

序章:旅の動機と二人の先達

数年前のとある夏、私はどうにも体の調子が上がらなかった。思考がうまくまとまらず、体の節々が軋むような、奇妙な淀み。もはや習性のようなもので、定期的に物理的な移動をしないと、心身の澱がうまく排出されないらしい。私にとって旅とは、趣味や気晴らしというよりは、むしろデトックスや精神的な新陳代謝に近い、生理的な欲求なのである。

旅は好きだが、旅の計画はひどく億劫だ。どの観光名所を、どの順番で、どの交通手段で巡るのが効率的か。考え始めると、思考は無数に分岐し、あっという間に時間を浪費してしまう。せっかちで効率を重視する性分からすると、この計画段階の「非効率」がどうにも我慢ならない。結果として、私の旅はいつも「半島一周」という、思考停止できる快適なものに落ち着く。ルールは至極単純だ。レンタカーを借り、ただひたすらに海岸線を走る。それだけ決めておけば、道に迷うことすら億劫な私でも、どうにかなる。

しかし、その夏の旅は少しだけ毛色が違った。目的地を津軽半島と定めたとき、私の脳裏には、長年バイブルとしてきた司馬遼太郎の『街道をゆく』の「北のまほろば」の章が鮮やかに蘇った。そして、津軽を語る上で避けては通れないもう一人の巨人、太宰治。彼の代表作『津軽』も、この際だからと改めて読み返してみた。珍しいことだった。計画嫌いの私が、出発前に二冊もの本を読み込んでしまったのだ。

この二人の旅は、あまりにも対照的である。太宰の旅は、どこまでも「私的」で「内省的」だ。彼の『津軽』は、このような一文から始まる。

 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

故郷でありながら、ほとんど何も知らなかった土地。それを巡る旅は、自らのルーツを探る切実な巡礼であったに違いない。旅に出る理由を問われた彼は、作中でこう答えている。

「ね、なぜ旅に出るの?」 「苦しいからさ。」 (中略) 「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」 「さうして、苦しい時なの?」 「何を言つてやがる。ふざけちやいけない。お前にだつて、少しは、わかつてゐる筈たがね。もう、これ以上は言はん。言ふと、気障きざになる。おい、おれは旅に出るよ。」(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

作家としての、あるいは一人の人間としての焦燥感。それが彼を津軽へ向わせた。彼の旅は、旧友との再会や過去の記憶との対峙を通じて、自らの内面へと深く深く潜っていく。

一方、もう一人の先達、司馬遼太郎の視線は、太宰のそれとは正反対だ。彼の旅は、「公的」で「歴史的」である。太宰が自らの血肉の声を聴こうとしたとすれば、司馬遼太郎は、土地そのものが発する歴史の声に耳を傾けた。彼は『街道をゆく 41 北のまほろば』で、この土地が持つポテンシャルを「まほろば」という言葉に託し、その意味を深く問い直すことから旅を始めている。

 古代における『まほろば』は、国あるいは郷土の意味だが、その意味をさだかにしてゆけば、『真秀(まほ)ら』つまり秀れたる場所である、という感動語である。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

そして、その「秀れたる場所」とは何か。単なる景勝地を指すのではない。

 その村の風景が美しい、ということと、そこでの人々の生活が美しい、ということと、そこにいる人々の心性が美しい、ということの三つの要件から成立している。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

司馬の旅は、この三つの要件が、日本の北辺においてどのように存在し、あるいは失われていったのかを辿る壮大な思索の道程だ。彼は、この地の歴史を語る上で、中央とは異なる独自の精神史があったことを強調する。

 この地の民衆が、どのような精神史を歩んだか、ということに興味がひかれる。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

古代においては中央を凌駕するほどの文化が花開いた「まほろば」。しかし、その後の歴史の中で、津軽は長く「寡黙」になる。なぜ、「まほろば」は歴史の表舞台から姿を消したのか。司馬の旅は、この壮大な謎を解き明かそうとする試みでもあった。

そして、司馬遼太郎は、この津軽という土地を語る上で、先行する文学者である太宰治を強烈に意識している。彼は太宰を、単に津軽出身の作家としてではなく、この土地の複雑な精神史を体現した存在として捉える。その評価は、愛憎入り混じった、実に複雑なものだ。

 わが国の作家で、これほど故郷を憎んだひとはすくない。かれは郷里を憎みきって、その憎悪をことさらに文章にしたたかに表現することで、自己を表現した。太宰治のことである。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

内へ向かう太宰と、外へ向かう司馬。この二つのまったく異なる視座を携えて、私は津軽の道を走ることにした。計画嫌いの私が立てた計画は、やはり「津軽半島を一日で一周する」という、我ながら無謀でせっかちなものだった。夜行バスで東京を発ち、真夏の早朝、弘前に降り立つ。そこでレンタカーを借り、日が暮れるまでに半島をぐるりと駆け抜ける。二人の先達がじっくりと歩いた道を、エアコンの効いた現代の利器で一気に駆け抜けるとき、一体何が見えるというのか。自らの浅薄さを予感しつつも、私はアクセルを踏み込んだのである。


第一部:東海岸北上 - 歴史の陽炎と朝の湯

私の旅は、太宰が辿ったルートをなぞるように、弘前から青森市を経て東海岸、外ヶ浜街道を北上することから始まった。じりじりと照りつける太陽が、アスファルトから陽炎を立ち上らせている。弘前の城下町には目もくれず、ただひたすらに北を目指す。私の関心は、城そのものよりも、この土地の歴史をダイナミックに動かした人物にあった。司馬遼太郎が「北のまほろば」で強烈な光を当てた男、津軽為信である。

司馬は、為信を単なる地方の戦国大名としてではなく、歴史を新たな段階に押し上げる原動力として描いている。

 為信は、戦国末期における最大の梟雄のひとりといっていい。梟雄というのは、いわば英雄の悪党めいた呼称だが、かれらがおこなったことは、その地方の歴史をあたらしい段階にむりやり押しあげることであった。 (中略)  為信という人物は、津軽の歴史のなかで、ひとつの奇蹟であった。かれの存在によって、津軽は、はじめて南部氏の支配から脱して独立し、政治的実体をもつ「国」になった。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

南部氏の一族でありながら、主家を裏切り、謀略と武力で津軽を切り取っていく様は、まさに梟雄そのものだ。しかし、司馬の筆致は、為信を単なる悪党として断じてはいない。むしろ、その行動力と政治的嗅覚に、ある種の魅力を感じているようにさえ読める。

 為信は、京都の中央権力(このばあいは秀吉)の価値を、東北の武将のなかでだれよりも早くみぬき、その価値に自分をくっつけることによって、津軽というあたらしい領国を、権威ある一個の政治的存在として確立させようとした。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

中央の価値を見抜き、それを最大限に利用する。このリアリズムこそが、為信を単なる地方の反逆児で終わらせなかった所以だろう。私は、陽炎の揺らめく国道を走りながら、この土地が持つ、どこか中央への反骨心と、同時に中央を強かに利用しようとするしたたかさの二面性に思いを馳せた。それは、太宰が『津軽』の序編で記した、弘前の人々が持つ「ほんものの馬鹿意地」にも通底しているように思える。

 永慶軍記といふ古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず。」といふ言葉が記されてゐるさうだが、弘前の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ。(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

この頑固で、どこか非合理な誇り。それこそが、為信のような人物を生み、津軽という「国」を形作った精神的な土壌なのかもしれない。

青森市を抜け、いよいよ外ヶ浜街道に入る。時刻は午前10時を少し回ったところ。半島を北上する前に、私は一つ寄り道をすることに決めていた。計画嫌いの私だが、良質な温泉とサウナの情報収集だけは怠らない。夜行バスで凝り固まった体をほぐし、これからの長距離運転に備える。これほど合理的な判断はないだろう。目的地は、蓬田村にある「ふれあいセンター よもぎ温泉」。観光客向けの華やかさとは無縁の、その地味な佇まいにこそ、私は惹かれた。

ふれあいセンター よもぎ温泉

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「ふれあいセンター」という名の通り、そこは地元の人々の憩いの場だった。湯船には、農作業の合間に立ち寄ったのであろう老人たちが数人、気持ちよさそうに体を沈めている。湯は、わずかに黄色がかった透明で、肌にまとわりつくような、ぬるりとした感触があった。いわゆる「美人の湯」と呼ばれる泉質だろう。飾り気はないが、湯そのものの力が圧倒的だ。これぞ、私が求める温泉の姿である。

私は湯船の縁に頭を乗せ、天井を眺めながら、太宰の旅に思いを馳せた。彼がこの外ヶ浜をバスで旅したのは、昭和19年の5月。季節外れの寒さに震えながらの道中だったという。

 夜のふけると共に、ひどく寒くなつて来た。私は、そのジヤンパーみたいなものの下に、薄いシヤツを二枚着てゐるだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来てゐる人さへ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでゐる。(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

かたや寒さに震え、かたや真夏の朝から極上の温泉に浸かっている。この圧倒的な断絶。しかし、この土地に湧き出る湯の温かさは、太宰の時代から何も変わっていないはずだ。もし彼がこの湯を知っていたら、旅の途中に立ち寄り、凍えた体を温めたのではないか。そんな空想をしながら、私はじっくりと体を芯から温めた。

最高の温泉で心身ともにリフレッシュし、再び北上を開始する。太宰の『津軽』の旅が本格的に動き出すのは、蟹田の町からだ。彼の旅は、旧友たちとの再会によって彩られている。蟹田では、中学時代の唯一の友人であったN君と再会し、蟹を肴に酒を酌み交わした。

 何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。  青雲倶に達せず、白髪逓たがひに相驚く。  二十年前に別れ、三千里外に行く。  此時一盞いつさん無くんば、何を以てか平生を叙せん。  (白居易)(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

私はといえば、もちろん迎えてくれる友人もいない。蟹田の町を、ただ車で通り過ぎるだけだ。彼が友人と旧交を温めたであろう家々を横目に、私はコンビニで買った淹れたてのコーヒーを啜る。孤独だが、気楽だ。この自由こそが、計画嫌いの私にとっては何よりの贅沢なのだ。

車は三厩(みんまや)を過ぎ、いよいよ本州の最北端、竜飛崎へ向かう。その途中、私は義経寺に立ち寄った。

義経

太宰も訪れたこの寺について、彼はどこか冷めた筆致で記している。

 むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

そして、この伝説を「奇妙に恥づかしいものである」と一蹴する。私もまた、この手の伝説にはどこか白けてしまう。合理性を求める性分が、素直な感動を妨げるのだ。

しかし、司馬遼太郎の視点は全く異なる。彼はこの義経寺の伝説に、単なる物語以上の、津軽という土地の精神史を見出す。司馬によれば、この伝説は津軽藩によって巧みに利用された。自らの領地が、判官びいきの対象である義経によって守られた神聖な土地であると喧伝することで、防衛意識を高めようとしたのだ。そして、その藩の意図は、やがて民衆の間に深く浸透し、独自の信仰へと発展していく。

寛政六年(1794年)に蝦夷地でアイヌの蜂起が起きた際、幕府から援軍を命じられた津軽の村々は、義経寺に「護国」の祈祷を依頼した。これは、義経の威霊が国難から自分たちを守ってくれるという、切実な信仰の表れだった。司馬はこの現象を、単なる「迷信」とは見なさない。

 この信仰は単なる「迷信」と片付けられるものではなく、津軽という僻地の人々が、中央権力からの自立を志し、アイヌやロシアといった外敵から身を守ろうとした郷土防衛の意識と結びついていたものとされている。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

そして、司馬はこう結論付ける。

 この寺が、義経という「流浪の英雄」の霊魂に津軽の民衆の自立の精神を投影しているように見える。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

太宰が「恥づかしい」と切り捨てた伝説の中に、司馬は津軽人の反骨と自立の精神史を読み解いた。同じ対象を見ても、視座が違えば、見える風景は全く異なる。私は、二人の巨人の視点の間で揺れ動きながら、この北の寺を後にした。

三厩から竜飛崎までは、太宰の時代、波打ち際の心細い道を3時間ほど歩かねばならなかったという。彼の描写は、自然の厳しさを克明に伝えている。

 二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、(中略)この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

私が走る国道339号線、通称「竜泊ライン」は、かつての心細い道とは比べ物にならないほど整備されている。しかし、カーブを曲がるたびに現れる断崖絶壁と、夏の強い日差しを浴びて青く光る津軽海峡は、太宰が見た「風景以前の風景」の面影を今に伝えている。ここは、人間を寄せ付けない、自然の素顔が剥き出しになった場所だ。

そして、ついに竜飛崎に到着する。太宰は、この地の最初の印象を「鶏小舎に頭を突込んだ」と記した。

 路がいよいよ狭くなつてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。 「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。 「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

「本州の袋小路」。これほど的確な表現があるだろうか。私もまた、車を降りてその集落を歩いてみた。強い海風を避けるように家々が身を寄せ合い、細い路地が迷路のように入り組んでいる。有名な「階段国道」も、この土地の過酷な地形が生んだ、生活の知恵の結晶だろう。

風の岬に立ち、津軽海峡を眺める。

太宰はこの地で、辺境の可憐な文化に希望を見出したが、司馬は同じ場所に立ち、幕末の志士、吉田松陰に思いを馳せた。この、吉田松陰津軽来訪という事実に、私は驚きを禁じ得なかった。長州の思想家が、なぜこの北の果てに。

 松陰は、二十四歳の多感な年齢でここに来て、なにを視、なにをおもったか。かれは、日本という国家の全体像とその国家がおかれている客観的な立場を、この岬で実感したかったにちがいない。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

司馬によれば、松陰が津軽を訪れたのは安政三年(一八五六)八月。その目的は、津軽藩士たちに「西洋兵学」を講じるためであった。津軽が「北方防衛の要地」であり、「ロシア」の脅威を強く意識していたこと、そして松陰自身も「蝦夷開拓」を唱えるなど、北方防衛に強い関心を持っていたこと。この両者の危機意識が、奇跡的な邂逅を生んだのだ。

松陰の教えは、単なる軍事技術に留まらなかった。

 藩の体制を批判し、世直しを唱えた。(中略)藩の旧体制を批判し、変革を促した。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

この思想が、後に津軽藩の「世直し派」と呼ばれる若手藩士たちに受け継がれ、藩の近代化を推し進める原動力となった。

 弘前藩では松陰の兵学を学んだ人々が後に世直しという運動の中心人物になった。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

私は、この岬に立ち、津軽海峡の向こうを見つめながら、歴史の不思議な糸を感じていた。一人の思想家が蒔いた種が、遠く離れた北の地で芽吹き、やがて藩の運命を変えるほどの大きな流れになっていく。街道をゆくということは、こうした歴史のダイナミズムに触れることでもあるのだ。

時刻は昼を少し回ったところ。私は岬の食堂の暖簾をくぐった。ラーメンは栄養補給と割り切っている私だが、旅先での一度くらいの贅沢は許されるだろう。メニューに並ぶ海産物の中から、迷わずウニ丼を選んだ。計画性のない旅の中での、唯一の明確な目的だったかもしれない、と一人ごちる。

やがて運ばれてきた丼には、鮮やかなオレンジ色のウニが、ご飯の上にどっさりと乗っていた。一口含むと、濃厚な甘みが舌の上でとろけ、磯の香りが鼻腔を抜ける。単なる味覚の快楽ではない。この極北の地で、津軽海峡の荒波に揉まれたウニを食すという行為そのものに、私は深い感慨を覚えていた。吉田松陰も、まさか後世の人間が、国防の最前線でこんな美味を堪能しているとは思わなかっただろう。二人の先達の思索に、土地の恵みという具体的な手触りが加わった瞬間だった。


第二部:西海岸南下 - 幻の都と物語の引力

竜飛崎から南下を始めると、半島の表情は一変する。険しい外ヶ浜とは対照的に、西海岸は広大な砂丘地帯がどこまでも続いている。やがて、広大な十三湖(じゅうさんこ)が視界に広がってくる。こここそ、司馬遼太郎が「北のまほろば」の核心として描いた場所である。かつて、この地に「十三湊(とさみなと)」という幻の国際貿易港が存在した。

太宰は『津軽』の中で、この湖を「人に捨てられた孤独の水たまり」と、その静謐さを描写したが、司馬の視線はその水面の下に眠る、熱い歴史へと注がれる。

 中世に書かれた「廻船式目」のなかでは、「津軽十三の湊」として、博多や堺ととならぶ全国「三津七湊」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられている。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

この地を支配した安東氏は、大陸との交易をも行い、一大勢力を築いたという。司馬の筆致は、この北の果てに存在した幻の都へのロマンに満ちている。

 かれら(安東氏)は、どこからきたのか。そのことが、この氏族を神秘的にしている。かれらは、安倍貞任の子孫だとか長髄彦の末裔だとか称しているが、それらはみな仮冒であろう。おどろくべきことに、かれらには文書というものがない。一族のあいだでさえ、口承によっておたがいの家の由緒を述べたてたらしい。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

文書を残さない謎の海洋豪族。その存在自体が、中央集権的な歴史観に対するアンチテーゼのようだ。司馬がこれほどまでに安東氏に惹かれたのは、彼らが持つ「もう一つの日本」の可能性に魅了されたからに他ならない。

 かれらは海にうかぶ浮標のように、この十三湊を本拠にして、日本海海上権をにぎり、巨大な富をたくわえた。その富で、かれらは武装した。おそらくは朝鮮や、あるいは沿海州方面の珍奇な文物も、かれらのもとにはあふれていたにちがいない。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

しかし、その栄華は歴史の波にのまれ、今では静かな湖面が広がるばかりである。私は、その湖畔に立つ「しじみ亭奈良屋」という食堂の暖簾をくぐった。時刻はすでに14時半を過ぎていた。遅い昼食として注文した名物のしじみラーメンは、滋味深いスープが空腹の体に染み渡る、格別な味がした。一杯のラーメンの向こうに、司馬が描いた数百年の栄枯盛衰が横たわっている。

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腹を満たした私の旅は、いよいよ核心へと向かう。太宰が三十年ぶりに乳母「たけ」と再会した、小さな漁村、小泊である。その手前の中泊町で、私は「小説『津軽』の像記念館」という小さな看板を見つけ、吸い寄せられるようにハンドルを切った。

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記念館は、太宰の旅の足跡を辿るささやかな展示施設だった。しかし、私の心を捉えたのは、展示物よりも、片隅でひっそりと上映されていた一本の映像だった。晩年の「タケ」本人が、インタビューに答えている記録映像だ。

私は、食い入るように画面を見つめた。『津軽』を読んで、私の中に作り上げられていた、あの感動的な再会の場面の「たけ」。その人物が、今、目の前で動いている。しかし、彼女が口を開いた瞬間、私は愕然とした。その言葉が、一言も聞き取れないのだ。それは紛れもなく日本語なのだが、イントネーションも、単語も、私の知るそれとは全く異なっていた。文字で読んでいた「たけ」の言葉は、太宰という卓越した翻訳家によって、私にも理解できる形に整えられていたに過ぎなかったのだ。

津軽弁という、土地に深く根ざした言葉の奔流。意味は分からなくとも、その声の調子や、時折見せるはにかんだような笑顔から、彼女の持つ愛情の深さだけは痛いほど伝わってくる。司馬が津軽の言葉に感じ入った、あの感動が少しだけ分かったような気がした。

 津軽の言葉は、日本人が失ってしまった、言葉の美しさをもっている、と私は感じた。 (中略)  そこには、いまも、生きた音韻(おんいん)が息づいている。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

それは、感動的であると同時に、自分がこの土地の本当の姿にはまだ触れられていない部外者であることを突きつけられるような、強烈な体験だった。この聞き取れない言葉の壁こそが、津軽という土地の、本当の肌触りなのかもしれない。

記念館を出て、再び小泊へと車を走らせる。先ほどの映像の衝撃が、これからの体験をより一層、意味深いものに変えようとしていた。司馬の壮大な歴史探訪というマクロな視点から一転し、旅の主旋律は、個人の記憶と感情というミクロな世界へと移っていく。

そして、小泊。私は、太宰がたけと再会したであろう場所を探した。運動会が開かれたという砂丘、そして二人が語り合った竜神様の森。もちろん、そこに案内板などない。蝉時雨が降り注ぐ、夏の漁村のありふれた風景だ。しかし、だからこそ良かった。観光地化されていない静かな場所で、私は目を閉じ、想像力を羽ばたかせた。

聞き取れなかったタケの生の声を思い出しながら、私は『津軽』のあのクライマックスを反芻する。

 たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切たみたいに能弁になつた。 「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。(中略)三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、(中略)それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。(太宰治津軽』より、青空文庫所収)

あの聞き取れなかった言葉の奥に、これほどの情愛が込められていたのだ。書物という二次元の世界に、現実の土地の匂いや風、光、そして生の言葉の響きが与えられ、物語が三次元的に立ち上がってくる。この感覚は、どんな有名な観光地を訪れるよりも、深く、そして静かに、私の心を揺さぶった。一日という慌ただしい旅の中で、ここだけが、まるで時間の流れが違うように感じられたのである。


終章:終着点、金木 - 三人の女性の面影とサウナ

小泊を後にした私は、旅の最終目的地である金木町へ向かった。この旅には、もう一つ密かな目的があった。今はもう伝説となった、桑田ミサオさんの笹餅を手に入れることだ。この旅に出るずっと前から、私はNHKオンデマンドで彼女のドキュメンタリーを何度も、それこそ有料の視聴期間が切れるたびに買い直して、見返していた。「プロフェッショナル 仕事の流儀」(2020年6月2日放送)と「ETV特集」(2022年1月8日放送)。その二つの番組は、私の心を捉えて離さなかった。

www.nhk-ondemand.jp

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まず、太宰の生家である太宰治記念館「斜陽館」を訪れる。司馬が描いた梟雄・津軽為信を生んだ風土と、太宰のような繊細な感受性を育んだ風土が地続きであることの不思議を感じる。この豪壮な邸宅が太宰の原風景なのか。ここで、司馬遼太郎の厳しい太宰評が、重くのしかかってくる。

 わが国の作家で、これほど故郷を憎んだひとはすくない。かれは郷里を憎みきって、その憎悪をことさらに文章にしたたかに表現することで、自己を表現した。太宰治のことである。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

この巨大な家、大地主という出自。それが太宰に生涯つきまとったコンプレックスの源泉であり、故郷への憎悪の根源であったことは想像に難くない。司馬はさらに、『津軽』を単なる紀行文とは見なさない。

 友人であるH君が、『太宰治の『津軽』は名著だが、これは旅行記ではなく、小説というべきだ』と指摘してくれた。私もそのように考えていたから、うれしかった。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

津軽』の中で描かれる「いとこ」の津島文治という人物の描写について、司馬はそれが事実とは異なると指摘し、太宰が自身の複雑な家族関係を、文学的虚構の中に昇華させたのではないかと鋭く分析する。

 彼は、『いとこ』と書いたが、それは彼の父の実弟(つまり叔父)である可能性がつよいと、私は推量した。父の名は津島源右衛門で、この人が、妾腹の弟を津島文治と名づけて養子としたのかもしれない。太宰治は、津島文治という人物を『故郷の者』として、文章に登場させている。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

この指摘は、私が小泊で感じた、生の「たけ」と文学作品の中の「たけ」との間の距離感とも符合する。太宰の『津軽』は、事実をなぞりながらも、彼の内面世界を投影した、まことに「珍妙な小説」なのだ。その憎悪も愛情も、すべては太宰治という作家の自己表現のための装置であったのかもしれない。司馬は、その文学的手法をこう喝破する。

 太宰は、彼の文学的方法として、故郷を憎悪するという形式をとったのである。(司馬遼太郎街道をゆく 41 北のまほろば』)

そして、もう一つの目的、ミサオさんの笹餅を求めて、金木タウンセンター店へと向かった。ミサオさんの生き方は、効率や合理性とは対極にある。60歳で笹餅作りを始め、75歳で起業。その評判は全国に広がり、津軽を代表する味の一つとなっていた。

映像の中で見た彼女の姿が、脳裏に焼き付いている。自ら山に分け入って笹の葉を採り、材料のこしあんから全て手作りする。その口から語られる「十本の指は黄金の山」という亡き母の教え。2022年3月11日付の朝日新聞の記事で、彼女の仕事ぶりを改めて知った。

 餅づくりは休日なし。販売の前日は、作業が午前6時から午後10時近くまで及ぶ。商品は1袋2個入りで200円(税込み)。材料費や作業を考えると、抑えめの料金だ。利益は年に40万円ほど。でも「もうけることを考えたら、楽しくない」と意に介さない。(2022年3月11日付 朝日新聞

私の「一日で半島一周」という、せっかちな旅のスタイルとはまるで違う、時間と手間を惜しまない手仕事の世界。映像を通して見たその哲学に、私は深く感銘を受けていた。だからこそ、惹かれたのかもしれない。その手仕事の結晶である笹餅を、私はどうしても味わってみたかった。

しかし、辿り着いた販売所の戸は固く閉ざされ、そこには無情にも「本日完売」の札が揺れていた。あっけない幕切れ。まあ、こんなものだろう。効率を求めて時間を短縮した結果、本当に価値のあるものを手に入れ損なう。私の人生の縮図のようだ、と自嘲的な笑みが漏れた。

記事によれば、ミサオさんは90歳を過ぎてから、その超人的な仕事にも限界を感じ始めていたという。

 以前から「材料に使う27キロの米袋が担げなくなったら引退」と考えていたが、最近は持ち上げるのがやっとになった。  販売は、3月12日でいったん終えることに。「笹の葉が採れる6月になったら始めようと思っていますが、体がもう限界のようです。年内で引退するつもりです。悔いはありません」と打ち明けた。(2022年3月11日付 朝日新聞

私が訪れた夏、彼女はまだ引退前だったが、その人気は絶頂で、開店と同時に売り切れることも珍しくなかったのだろう。私が目にした「本日完売」の札は、単なる不運ではなく、伝説が終わりを告げる、その予兆だったのかもしれない。

まさかこの数年後に、ミサオさんご本人が笹餅づくりを引退され、この笹餅が完全に手に入らなくなるとは、この時の私は知る由もなかった。しかし、希望はある。ミサオさんのご本人の希望で、今は姪の小嶋美子さんがその後を継いでいるという。ミサオさん曰く、「自身の味に一番近いのは美子さんのつくる笹餅だ」とのこと。文化の継承。それもまた、この土地が持つ力なのだろう。

この旅で、私は津軽を象徴する三人の女性の面影に触れた。太宰の記憶の中に生き、彼の魂の拠り所となった乳母「たけ」。会うことは叶わなかったが、その手仕事の記憶を土地に刻んだ「桑田ミサオさん」。そして、司馬が描いた歴史の陰に消えた、安東氏の時代の名もなき女性たち。彼女たちは、この厳しい土地で、男たちの歴史の背後で、しなやかに、そして強かに生きてきたのだろう。

弘前でレンタカーを返却し、その夜の宿として予約しておいた「カプセルイン弘前・アサヒサウナ」へと向かった。ビジネスホテルを理想の家とする私だが、その合理性を突き詰めると、時にカプセルホテルという選択肢にたどり着く。特に、良質なサウナが併設されているとなれば話は別だ。全国の有名サウナを巡った経験から言っても、旅の疲れを癒すのにこれほど効率的な施設はない。

ここのサウナは、期待以上だった。灼熱のサウナストーンにアロマ水がかけられ、蒸気が舞い上がる。熱波師がタオルで力強く熱風を送る「ロウリュウ」サービス。全身の毛穴という毛穴が開き、一日中運転で凝り固まった体から、汗と共に旅の澱が絞り出されていく。キンキンに冷えた水風呂との往復で、思考は明晰になり、感覚は研ぎ澄まされる。

ととのい椅子に深く身を沈めながら、一日で駆け抜けた旅を反芻する。司馬の壮大な歴史物語と、太宰の個人的な魂の遍歴。そして、会うことは叶わなかったミサオさんの笹餅。三つの異なる時間軸が、ロウリュウの蒸気のように立ち上っては消えていく。この感覚こそ、私がサウナを愛する理由であり、旅を求める理由でもあるのかもしれない。

手に入らなかった笹餅と、心に焼き付いた小泊の森。旅の収支は、いつも不均衡だ。そして、その不均衡こそが、私を次の道へと駆り立てるのかもしれない。

初動負荷トレーニングを続けてみて 〜イチローに導かれた私の健康と人生の記録〜

はじめに:イチローを思いながら歩んできた道

私はイチローが大好きです。少年時代から今日に至るまで、常にイチローを念頭に人生を歩んできました。もちろん、イチローほど自分に厳しくはできません。彼のように毎日欠かさず自分を律し、妥協を許さない姿勢を完全に真似ることは、凡人の私には到底できません。だからこそ、私にとってイチローは「神の目線」に存在し続けています。

何かを選択するとき、迷ったとき、妥協しそうなとき――「イチローならどうするだろう?」と考えることで、自分の行動を少しだけ正しい方向に修正できる。そうやって私は、仕事でも健康でも人生でも、折に触れてイチローを心の指針にしてきました。

その延長線上で出会ったのが、初動負荷トレーニンです。イチローが現役時代から、そして引退後も欠かさず取り組んでいるトレーニング。その哲学に触れ、私は2023年7月から週5回を基本に続けてきました。

本記事では、私がなぜ初動負荷を選び、どう続けてきたのか、どんな効果を感じているのか。そして、イチローの言葉やアスリートたちの実践例を引用しながら、「怪我をしないで動き続ける」ためのヒントを記していきます。


健康と運動、そしてサルコペニアとの出会い

健康について知りたくなったとき、私はいろんな本を読み漁りました。食事、睡眠、サプリメント、メンタル……さまざまな健康法が語られていましたが、やはり共通して強調されていたのは「運動は欠かせない」ということでした。

けれども、ただ筋トレをすればいいわけではない。ランニングすれば万全というわけでもない。人間の体は複雑で、特に加齢とともに「動けなくなる」リスクは高まっていく――そんな現実を、私は本から学びました。

そしてある日、友人のお父様の姿を目にしました。80歳近い年齢で、よちよち歩きで移動している姿。背中が曲がっているわけではありません。ただ、歩幅が小さく、バランスを取りながら、ゆっくりとしか歩けないのです。その姿を見たとき、人間にとって「歳をとっても歩けること」がどれほど大事かを痛感しました。

医学的には、加齢に伴って筋肉量が減少し、日常生活に支障をきたす現象をサルコペニアと呼びます。特に下半身の筋力低下は顕著で、転倒リスクや要介護リスクを大きく高めます。

私はこのとき、健康本から得た知識と、目の前の現実が一本につながったのを感じました。
「ただ筋肉を鍛えるのではなく、歳をとっても歩ける体を作らなければならない」――この意識が芽生えたことが、私を初動負荷トレーニングへ導いたのです。


初動負荷トレーニングとは何か

理論と仕組み

初動負荷トレーニングは、小山裕史博士が考案し、国際特許を取得しているトレーニング法です。専用のB.M.L.T.カムマシンを使用し、動作の「初動」で最も大きな負荷がかかるように設計されています。

これにより、筋肉は「弛緩 → 伸張 → 短縮」という自然な動きを繰り返し、主動筋と拮抗筋の無駄な同時収縮(共縮)を防ぎます。結果として、神経と筋肉の協調性が高まり、しなやかで無駄のない動きを身につけられるのです。

初動負荷トレーニングの効果

  • 血流改善による疲労回復の促進

  • 関節の可動域拡大

  • 筋肉と関節のバランス調整による怪我予防

  • 神経制御の改善による動きの精緻化

  • 高齢者やリハビリ患者でも取り組める安全性

従来の筋トレが「筋肉を壊して太くする」のに対し、初動負荷は「動きを整え、怪我を防ぐ」ことに重点を置いている点が大きな違いです。


イチローが語る初動負荷トレーニン

朝のルーティン

イチローさんは情熱大陸公式YouTubeでこう語っています。


www.youtube.com

「もうこれなしの生活は考えられないですね。歯を磨いて顔を洗って、ユンケル飲んで、そして必ず最初にやるのはこのマシン。股関節周りの可動域と血流が高まると全体に流れも良くなる。だから最初にやるんです」

彼にとって初動負荷は、歯磨きや洗顔と同じ「生活の一部」。

現役時代より強い負荷

「現役の時は遠征も多くて軽い負荷しかかけられなかった。今は毎日できるので、むしろ現役時代より負荷は上げています。これは未知の領域ですね」

引退後の今こそ、最も理想的に取り組めている――この言葉は、初動負荷が「生涯続けられるトレーニング」であることを示しています。

関節が気持ちいい

「これは関節がすごく気持ちいいんですよ。潤滑油が切れていくところに足してくれる感じ。関節を鍛えるのって難しいけど、このマシンならそれができる」

初動負荷をやった人が皆感じる「関節の心地よさ」。イチローの言葉で裏打ちされると、その説得力は計り知れません。

力を抜くことの大切さ

「草食動物の軽やかさが欲しい。でも内側は肉食の性質でありたい。…高校生にもよく言いますけど、力を入れるのは簡単。でも大人になると抜くことができなくなる。抜けないと綺麗には見えない。それを可能にしてくれるのが、このトレーニングなんです」

「抜く力」こそ、イチローのプレーを支え続けた秘密。その思想は初動負荷トレーニングに深く結びついています。

他のアスリートが選んだ初動負荷トレーニン

山本昌 ― 50歳での勝利投手

中日ドラゴンズ山本昌投手は、50歳1か月でプロ野球史上最年長勝利を記録しました。
その裏には、初動負荷トレーニングを取り入れた日々の積み重ねがありました。

一般的に、40代半ばを過ぎれば投手としては引退するのが自然な流れです。筋力の衰え、関節の摩耗、疲労の蓄積……。しかし山本昌は「怪我をせず、動きをなめらかに保つ」ために初動負荷を選びました。それが現役最長寿の記録を支えたのです。

岩瀬仁紀 ― 1002試合登板の鉄腕

中日ドラゴンズ岩瀬仁紀投手は、プロ野球史上最多の1002試合登板を果たしました。
酷使されるリリーフ投手でありながら、大きな故障をせずに20年近く一軍のマウンドに立ち続けた背景には、やはり初動負荷トレーニングがあります。

岩瀬は「肩や肘の疲労を残さず、次の日また投げられる体」を作ることを重視しました。追い込む筋トレではなく、回復と調整を兼ねた初動負荷こそ、彼の鉄腕を守り続けた秘密でした。

鳥谷敬 ― 鉄人ショート

阪神タイガース鳥谷敬選手も、初動負荷を取り入れていた一人です。ショートというポジションは毎日フル稼働が求められ、激しい動きや接触プレーも避けられません。にもかかわらず、鳥谷は長期間にわたってレギュラーを守り続けました。

彼もまた、怪我を防ぎ、関節を滑らかに動かし続ける初動負荷の恩恵を受けた選手の一人です。


私自身の体験談

筋肉痛が嫌いだった

私は筋肉痛が嫌いです。どれだけ頑張っても翌日に強烈な筋肉痛に襲われると、その瞬間にやる気がゼロになります。継続する気持ちが一気に削がれてしまうのです。

しかも痩せ型で筋肉がつきにくい体質。筋肥大を目指すトレーニングは、結果が出にくく、ただ疲労と痛みが残るだけでした。

初動負荷に一本化した理由

当初は筋トレと初動負荷を併用していました。しかし「筋肉痛がつらい」「結果が出にくい」ことに嫌気がさし、最終的には初動負荷一本に絞りました。

それ以来、私は体を「鍛える」よりも「整える」ことを意識するようになりました。

レーニング習慣

  • 基本は週5回

  • 通常は30分メニュー

  • やる気のない日も必ずジムに行く

  • その場合は15分だけに短縮して最低限の動きを確保

  • 19時までに行けない日は休む

「行かない」のではなく「短くやる」というルールにしたことで、習慣が途切れることはなくなりました。


初動負荷トレーニングの体感と効果

自分でマッサージしているような感覚

初動負荷は辛くありません。むしろ「自分でマッサージをしている」ような心地よさがあります。

実感している効果

  • 血流が良くなる

  • 関節が潤滑油を差したように滑らかになる

  • ひねる動作でもつらなくなった

  • 運動後の疲労感が少なく、むしろ体が軽くなる

「やった後に体が動かない」ことはありません。むしろ「やった後の方が調子が良い」という不思議な感覚。これは従来の筋トレにはない特長です。


書籍『希望のトレーニング』

書籍の概要

希望のトレーニング』(講談社)は、初動負荷トレーニングの魅力を多角的に紹介した一冊です。

 

  • イチローをはじめとするアスリートの証言

  • リハビリや高齢者の体験談

  • 小山博士自身の解説

「初動負荷が人生をどう変えたのか」という視点から語られており、トレーニングの枠を超えて「生き方の本」として読むことができます。

私が感じたこと

初動負荷は決してアスリートだけのものではありません。誰でも取り入れることができ、誰にとっても役立つ「普遍的な健康法」だということを、この本から再確認できました。


イチローとともに歩んできた人生

私はイチローが大好きです。常にイチローを念頭にして、人生を歩んできました。もちろんイチローほど自分に厳しくできないので、常に「神の目線」にイチローさんはいました。

迷ったとき、妥協しそうなとき、「イチローならどうするか」を考えるだけで、自分の行動が少しだけ正しい方向へ修正される。初動負荷を続けられたのも、イチローが示してくれた生き方が背中を押してくれたからです。

彼の「力を抜く大切さ」「怪我をしないで動き続ける哲学」は、私の人生の道標でもあります。


まとめ

初動負荷トレーニングは、筋肉を「鍛える」ものではなく、体を「調律する」ものです。
私にとっては今後も、健康で動き続けるための欠かせない習慣であり続けるでしょう。

 

自己紹介をします。

一言でいうと(サマリー)

効率を愛し、洗濯と旅を軸に暮らす40歳。理想の家はビジネスホテルのように無駄なく狭く合理的。半島一周旅行やサウナ巡りを楽しみ、フリーWi-Fiにすぐ繋ぐ。家電セットアップや役所手続き、確定申告まで得意なおせっかい屋。団体行動は苦手で、一人行動と「自由時間」を何より大切にする。


性格・特徴:
1984年生まれの40歳。せっかちで効率を重視するミニマリストでありながら、極度のめんどくさがり屋という矛盾を抱える。定番や地味なものを好み、安心できる場所を繰り返し訪れたいタイプ。午後10時には寝たい徹底した朝型人間だが、朝の目覚めは弱く、スヌーズ機能のヘビーユーザー。混雑や行列は大の苦手で、人気店に並ぶくらいなら予定を変える。映画は自宅で観ると寝てしまうため映画館派。集中すると他が見えなくなる反面、マルチタスクは不得意。会議中のメモは苦手だが、調べ物は大好き。なぜかカバンがいつも重い。健康管理に熱心で、人間ドックは毎年欠かさず、歯科検診は三ヶ月に一度。髪は2〜3週間に一度、美容室で「ドライヤー不要の長さ」に整える。綺麗好きというよりは「洗濯好き」で、自宅ではほぼ毎日洗濯。たたむのは苦手で、ハンガー収納が基本。家電は時短重視で、食洗機やロボット掃除機を愛用。洗濯機は乾燥機能付きのドラム式で、タオルやハンカチは乾燥仕上げ、それ以外は室内干し。

団体行動が苦手で、一人で動く時間を心から楽しむタイプ。「自由時間」という言葉自体がご褒美のように感じる。飲み会も大人数は避けたい方で、4人くらいでしっとり落ち着いて話せる場が理想。最大でも6人までが許容範囲。

好きなもの:
理想の家はビジネスホテル。無駄なく、狭くて、合理的な空間に惹かれる。お気に入りはドーミーイン。半島一周旅行(レンタカーで海岸線をぐるっと回るだけのシンプルな旅)、ラーメン(栄養重視の食生活の例外)、温かいお茶。本が好きで、新書・小説問わず読むが、旅行記系は特に好み。司馬遼太郎の『街道をゆく』はバイブル。最近は車中泊漫画も愛読。温泉・サウナも好きで、サ旅で日本各地の有名サウナを巡った経験あり。フリーWi-Fiがあると条件反射的に接続してしまう。電子機器や家電製品の初期設定・セットアップが得意で、人の家の家電や役所手続きまで率先してやる。確定申告すら楽しむタイプで、書類を整理して数字が揃っていく過程に快感を覚える。おせっかい心から友人のiDeCo手続きまでサポートしたこともある。海外旅行では、あえてガイドブックが薄い国や「地球の歩き方」がほとんど出ていないエリアに行くのが好き。テレビはNHKドキュメント72時間』、テレビ東京『家、ついて行ってイイですか?』、フジテレビ『ザ・ノンフィクション』を好む。好きな映画館はポレポレ東中野。好きな公共施設は「あきる野ルピア」。そして何よりラジオ。自分は話さずずっと聞いていられるから居心地がよく、もしかしたら一番の友達はラジオかもしれない。ロバート秋山水谷千重子のファン。

苦手なもの:
非効率なこと全般、徹夜、ギャンブル、シーツの張り替え、ピーマン、セロリ、玉ねぎ、パプリカ。

海外訪問歴(42カ国):
インド、中国、モンゴル、シンガポールラオスベトナムインドネシア、タイ、マレーシア、イラン、アゼルバイジャン、エジプト、トルコ、イスラエルレバノン、ヨルダン、ブルガリア北マケドニアコソボアルバニアモンテネグロセルビアボスニア・ヘルツェゴビナクロアチア、ロシア、フランス、デンマーク、ベルギー、アイスランドフィンランド、イタリア、ケニアガボントーゴベナンアメリカ、カナダ、メキシコ、コスタリカグアテマラエルサルバドルキューバ、コロンビア、ペルー、ボリビアパラグアイ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、チュニジアギリシャ

技術教師だった父の記録

父が死んで、二年が経った。

これは追悼文ではない。公立中学校の技術教師として生涯を過ごし、74歳で死んだ一人の男の記録だ。息子の私が書いている。

檜原村の少年

父は昭和25年(1950年)、西多摩郡檜原村で生まれた。

檜原村(出典:檜原村HP)

都心から西へ二時間。林業を主産業とする山の村だ。父はここで育った。

長男で、下に三人の妹がいた。妹たちによれば、若い頃の兄妹仲は良くなかった。典型的な、気むずかしい長兄だったようだ。

それが変わったのは、平成9年(1997年)に祖父が亡くなってからだ。父は47歳。急に面倒見が良くなり、妹たちを気にかけるようになったという。47年間気むずかしかった人間が、父親の死で一変する。人はそういうものなのかもしれない。

令和4年(2022年)7月には祖母・久子も亡くなり、父は檜原村の土地を妹たちと相続した。故郷の土地を守ることは、父にとって長男の務めだった。この土地の話は、最後にもう一度出てくる。

更地から学校を作った世代

中学を卒業した父は、昭和40年(1965年)に開校したばかりの都立秋川高等学校に進んだ。イートン・カレッジをモデルにした、東京都唯一の全寮制普通科男子校。東京都教育委員会が「次代のリーダー育成」を掲げて設立した学校で、父はその第一期生だった。

檜原の山から出てきた少年が、まだ何もない更地に立った。一期生たちは校章のモチーフとなるメタセコイアの並木を自分たちの手で植えている。伝統のない場所に、自分たちが伝統を作る。そういう時代だった。

秋川高校は2001年に閉校した。一期生が植えたメタセコイアは、跡地に今も残っている。

私が少年野球をやっていた頃、練習場が秋川高校のグラウンドだった。父の母校で、その息子が白球を追っていたことになる。

都立秋川高校のメタセコイアの木(出典:都立秋川高等学校50年史)

技術の教師

東京学芸大学を出て、公立中学校の「技術」の教諭になった。祖父も教員、祖父の弟も教員。教師の家系だ。

父がどんな授業をしていたのか、私は知らない。ただ、一つだけ鮮明に覚えていることがある。

私が小学四年生の夏休み、父は自由研究に「木の家の模型」を提案した。作業が始まると、早々に私の手を離れ、父が一人でホームセンターから材木を買い込んでノコギリを挽き始めた。完成した模型は見事で、学校では褒められた。私はほとんど何もしていない。

校長の挨拶

48歳で校長になった。

教頭時代は朝から晩まで学校にいたのに、校長になると朝7時過ぎに出て夕方6時には帰ってくる。始業式や卒業式の挨拶が主な仕事になったようで、書斎で原稿を練り上げては母に聞かせていた。母は熱心に自分の意見を言っていた。思えば、書斎にはスピーチの書き方の本がいくつも並んでいた。

青梅、福生、東大和。多摩地域の中学校を歴任し、最後の任地は東大和市立第五中学校。平成22年(2010年)に定年退職した。

退職後は檜原の実家の周りの草刈りや畑仕事をして過ごしていた。菩提寺である宝蔵寺の「世話人」も務めた。

一日5合

父の人生から酒を切り離すことはできない。

校長として生徒の前に立ち、書斎で挨拶の原稿を推敲していた同じ男が、帰宅すると毎晩ペットボトルの焼酎「大五郎」を飲んだ。一日5合。

母によれば、引退後は故郷に近いあきる野の地酒「喜正」を好んだという。

ただ、酒に強くはなかった。酔えば同じ話を繰り返し、説教がましくなる。親戚の集まりでは周囲を辟易させていた。

家族旅行で伊豆・網代の松風園というホテルに泊まったとき、カラオケで吉幾三の「酒よ」を歌っていたのが印象に残っている。

一人酒 手酌酒 演歌を聞きながら
ホロリ酒 そんな夜も たまにゃ なァーいいさ
しみじみと 飲めば しみじみと
思い出だけが 行き過ぎる
涙がポロリと……

この酒が、最後に効いてくる。

「酒が飲みたいから」

2017年秋、脳出血で入院。リハビリで回復したが、次に来たのは癌だった。

死亡診断書の病名は「肝内胆管癌」。肝臓がんの95%は肝細胞由来で、胆管細胞由来は稀だ。2020年2月に肝部分切除・胆のう摘出手術を受け、成功したが、半年後に再発した。

抗がん剤治療が始まった。しかし「非常につらい」ということで、自宅での緩和ケアに切り替えた。

そしてある時、父は自分から治療の中止を決めた。母から聞いた理由は、こうだった。

「酒が飲みたいから」。

最後まで、そういう人だった。

壁に貼られた服薬リスト

父が長年寝起きした和室に介護ベッドが置かれた。そこが父の世界のすべてになった。

2023年8月から、訪問医療の医師と看護師が週一回来るようになった。壁に服薬リストが貼ってあった。

朝だけで、前立腺肥大の薬(タムスロシン、デュタステリド)、ステロイド剤(デカドロン)、その副作用で上がる血糖値を抑える薬(グラクティブ)、胃を守る薬(タケキャブ)。腹水を排出する利尿薬(フロセミド、スピロノラクトン)。肝臓を守る利胆薬(ウルソデオキシコール酸)は一日三回。痛みにはカロナールが一日三回、夕食後に医療用麻薬のナルサス。夜は睡眠導入剤フルニトラゼパム。

この処方の管理と身の回りの世話を、母が続けた。

令和6年(2024年)3月21日、午後11時38分。父は74歳で、この介護ベッドの上で死んだ。

2,297,825円

葬儀は3月26日。親族21名の一日葬、家族葬。場所は父が生前に希望していた、自宅近くのドリーミーホール秋川(あきる野市上代継64-1)。

葬儀代金は約230万円。父が生前にこの葬儀場を希望していたため、そのまま使った。人が死ぬと、悲しみより先に請求書が届く。

22,000平方メートルと51,635円

遺産の整理をした。

あきる野の自宅と、故郷・檜原の土地。檜原村に残した土地は合計約22,000平方メートル。数字だけ見れば広いが、ほとんどが山林と原野で、二束三文だ。冒頭に書いた通り、父は故郷の土地を手放さなかった。

一方、すべての預金口座を合わせた現金は51,635円だった。

公立中学校の校長を務め上げ、退職金も年金もあったはずの男の、最後の預金残高がこの金額だ。真面目な人だったので、お金のこともしっかりしているものだと思っていた。

22,000平方メートルの土地と、51,635円の預金。意図してそうしたのか、結果としてそうなったのかはわからない。ただ、この二つの数字は、父という人間をかなり正確に表していると思う。

戒名と叙勲

菩提寺から届いた戒名は「教導総德信士(きょうどうそうとくしんじ)」。「教え導き、徳を総べる」。

死亡叙勲で、瑞宝双光章と正六位が贈られた。


檜原村で生まれ、教壇に立ち、酒を飲み、癌になり、それでも酒を選び、74歳で死んだ。預金は51,635円、土地は22,000平方メートル、勲章が一つ。

これが、私の父の全部だ。

死亡叙勲の手続き記録(教員経験者の場合)


父の死亡叙勲と額縁の準備について

2024年春、公立中学校の校長だった父が亡くなりました。

葬儀などで慌ただしい中、知人の方から「死亡叙勲の申請を忘れないように」と助言をいただき、調べてみると、亡くなってから7日以内に申請をすれば、死亡叙勲の対象になり得ることが分かりました。

申請の流れ(公立校長の場合)

  • 自治体などから自動的に推薦されるわけではなく、遺族側が希望の意思を示す必要があります。
  • 書類様式などは特に定められておらず、口頭連絡のみで進んだケースもあります。
  • 校長の場合は、最終任地の教育委員会に連絡するのが基本です。
  • 幸運にも、退職校長会の方が気を利かせてくださり、教育委員会から当方へご連絡をいただける形で話が進みました。

注意点

  • 私たち遺族は「退職校長会」という団体の存在をその時まで知りませんでした。
  • 日ごろから元勤務先や退職者団体とつながっておくことの重要性を感じました。

叙勲伝達・贈呈

数ヶ月後、伝達式が行われ、「瑞宝双光章」を授与されました。

  • 勲記・位記・勲章はそれぞれ個別に授与されますが、これらを一体的に飾るための額縁(額装)は支給されません。
  • そのため、自費で専用の額縁を購入する必要があります。

勲記・勲章・位記をまとめて飾れる額縁

私が購入したのは以下の製品です。
小綬章・双光章・単光章に対応した、コンパクトで上品なものです。

商品名

志賀:コンパクト勲記勲章位記額(紫雲) UVカット強化アクリル付き

購入リンク:


最後に

この記事が、同じようにご家族を亡くされた方の一助になれば幸いです。

死亡叙勲の申請は制度として広く知られているとは言えず、申請に期限があることもあまり共有されていません。
遺族が早い段階で情報を得られるよう、今後もこうした情報発信が続くことを願います。

【南米旅行】旅の最終日14日目。チリ・サンティアゴ

チリ・サンティアゴ3日目。

だいぶ旅慣れたというか、擦れてしまって、

旅疲れして、今どこにいるかよくわからなくなるし、

楽しんでやるぞという気力が減退している。

 


6時に起床。

シャワー浴びて、7時過ぎに朝食。

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9時までYouTube爆笑ヒットパレードを見て過ごし、

そのあと散策。

今日は元日の昨日とは打って変わって、

街に活気が蘇り、お店も開いていた。

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といっても特段やることもないので、

ひたすら歩きまくる。

(ちょっとだけ博物館的なところにも行った)

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あと地味にsimの電波を拾わなくなって不便になった。

アルマス広場からその周辺のお店を歩きまくりつつ、

ホテルまで引き返すルート。

たぶん15キロくらい歩いた。

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外も30℃ぐらいあって暑いので、

ショッピングセンターに行ったり。

上の階の方でご飯でも食べようとしたら、

えらい混んでて断念した。

地下の方にある大きめのスーパーで色々見て回る。

ついでにお昼も買ってみたけど、

なんかそこまで美味しくなかった。

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そうこうしてるうちに16時になって、

荷物を預けていたのでホテルまで戻り、

Uberで空港に向かう。

フライトの4時間前に空港入りしたのは、

ひとえにラウンジの時間を楽しむため。

とおもったら、なんかプライオリティパスのラウンジではあるが、

航空会社の系列が違うとかで使えなかった。

残念無念。

 


というわけでこれから丸2日かけて、

日本へ帰る。

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この南米旅行もおしまい。

【南米旅行】チリ・サンティアゴ2日目

チリ・サンティアゴのホテルにて朝を迎える。

年越しはいつの間にか寝てた。

朝5時半に起床。

朝食は7時から、であったが7時ちょうどに朝食会場についたら、まだ暗かったので、

外を10分ほど散策。

 

戻ってきた頃には朝食会場には電気が灯っており、

受付を済ませて朝食を取る。

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そのあとは市街地へ出る。

アルマス広場、この名前の広場は南米のどの街でもある。

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中央公園みたいなものである。

チリは野犬がいないし歩きやすい。

ただ、昨日の年越しでどんちゃん騒ぎでもしたのか、

街にゴミが溢れていた。

 


元旦ということもあり、

全ての店が閉まっている。

中央市場はやってた。

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ただ、ここはハエがたくさんいるし、魚の感じが生臭い。

豊洲市場を知ってる身からすると、

ここの衛生観念はとてもまずそうだ。

正直、ここではあまり食事をとりたくないと思ってしまった。

 


暑くなってきたので一旦ホテルに戻り、シャツを部屋に置く。

その後も散策するが、コンビニを含めて本当にどの店もやってない。

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唯一スタバだけやってたので、コールドブリューコーヒーを頼んで涼む。

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サンティアゴは朝方は16度ぐらいで半袖だと少し冷えるが、日中は32度ぐらいまで上がるので暑いくらいになる。

日差しも強いので日焼け対策は必須である。

 


ひたすらに歩き続け、小さな山というか、丘になってるところを目指す。

ロープウェイで頂上まで行けるところで、

サン・クリストバルの丘というらしい。

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頂上に行ったあとはロープウェイで引き返し、ホテルに戻る。この時点で14時ぐらい。

結局はお昼はホテルの2階のレストランで食べた。

鮭のグリルと白ワイン。

これだけで3000円した。

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そのあとは、部屋でYouTube観たりしてダラダラして過ごす。

18時過ぎに、夕飯をとりに街へ。

ハンバーガー屋くらいしかやってなかったので、

マックと悩んだが、チリのハンバーガー屋っぽいところに入って食べる。

チーズバーガーとポテトと飲み物のセットで1500円。

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チリは南米の中では物価は高そうだ。

 


明日はいよいよ現地最終日。

21時ぐらいのフライトなので、

明日もほぼ、丸一日、サンティアゴ観光ができるくらいには時間はある。